同時発売の「a」と併せて立て続けに聴いた。
寝起きに居間へ出るとNHKの小室哲哉をフィーチャーした番組が流れていたので、最後まで見通したのだよね。
番組内容はもう散々語り尽くされた小室哲哉の音楽家としての過去と、そして未来の小室哲哉像を本人が語るものであったのだけれども、まぁ、思春期から青春時代にかけて彼の音楽にべったりと張り付いていた自分としては、何はともあれ動いているてっちゃんがそこにいることに掛け値なく感動するわけでして。
そんなこんなの朝から昼にかけてこれを聴いていたのであります。
既存のシベリウスの音楽像とは、おそらく自然文化的側面に根ざしたところから始まり作られているように感じられるのです。いや、それは根ざしたと言うレベルでの話ではなく、もはやそれそのものなのかもしれないと。
もちろんその観点を否定するつもりは微塵もなく。
それでもこの演奏から捉えることの出来るシベリウスは、音楽を音楽として立脚させているものなのだよね。しがらみから解き放たれて、音楽としてそこにあるシベリウス。
パワーと優雅さの両立。音楽作品としてのシベリウス。「シベリウス」なる偶像を打ち壊すほどの革新を施しているわけではないのだけれども、実に活き活きと真新しいシベリウスとしてこれがあるように感じられるのです。
これらの録音が1970年代に築かれたものだと言うのだから、いやはや、クラシック音楽の底知れなさには恐ろしいものがありますな。
パワーに溺れるでもなく、リリカルに過ぎるでもなく、かといって中庸に甘んじるわけでもなく。
老成と言う名の衰えであるわけがなく、早熟と言う名の若さであるわけもなく。
ポリーニという人の弾くベートーヴェンは、端正でバランスよく美しいと言った印象なのです。美しさだけを刻んでとらえれば他にも美しいと感じられるピアニストは存在しますし、端正さやバランス感覚も同様。ただ無闇に圧倒させられる演奏でもなく。
人間としての音楽的な懐が広い演奏、とでも言えばよいのかな。この印象を言葉として表わすのはなかなか難しいものがありますよ。
そのようなことを考えながら聴いていると、思わず踊ってしまった指がチェケラッチョのポーズになっている、そんなあんぽんたんな私が聴いているクラシックなのです。言葉にするなど、とてもとても。