音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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VOCALIST / 徳永英明 (2005)

当然のことながら、女歌は男性が女を歌ってこそ成り立つ。カバーの手法、作品は数多くあれど、秘めやかな大人の恋を今歌うことで、フォーク〜歌謡曲の時代まで定番としてあったその世界の色気を再確認させられる。好サンプル。

徳永英明の声をもってすれば、どの曲であれども色気が出てくることに意外性はないが、固定観念として耳の中に音が定着している曲を、メロディの構成を崩すことなくなぞることで、あらためて曲の持つ背徳感、色気に圧倒される。自分も大人になったものだ。

圧巻は「シルエット・ロマンス」(1981・大橋純子)。歌詞のシチュエーション的に、やや離れた位置で見つめるストーキング的な「駅」(1986・中森明菜 / 1987・竹内まりや)と比較して、明らかに体温が重なる距離での男女を歌ったこの曲の艶が、あの匂いを取払った部分での淫靡を感じさせてくれる。大橋純子のオリジナルでは、あまりにも当り前に描かれた大人の恋が、今、徳永英明のそれを聴きながらそこに自分の声を重ねることで、やけに形を持った情感として現われてくるのだ。それだけのポテンシャルを持った曲だったということを、今さらながらに気づかせるわけだ。*1

で、その流れで聴いてしまうものだから「LOVE LOVE LOVE」(1995・Dreams Come True)ですらも、30代の恋模様に聞こえてしまう。何かを見せる歌い手にかかれば、曲はいかようにでも変化する。そんな当り前のことが、この島国で独自なる発展を誇った邦楽にも成立する。邦楽ですら、一過性ブームの背景に生まれる愛唱歌とは異なるスタンスでの熟成を謳う「スタンダードナンバー」が大量に生まれてきていることを、このカバーブームの裏側にて証明されつつあることが指摘される時期にさしかかっている。歌は歌い手の年齢・経験とともに、その背景を変えるという、音楽論の対極にある主観を見つめる動きが出始めても面白いのかもしれない。これだからカバーはやめられない。

*1:ふと鈴木トオルのカバーによる「スローモーション」を思い出したが、この曲も来生えつこ・来生たかおコンビだ