歳を重ねることは、自らの退路が徐々に断たれるということなのだろうか。振り返れば枝葉の選択肢は建物のささくれ同然となり、最早そこに何があったのかすら見えはしない。
ここに立ち、大声で叫んだとしても、谺は自らの後ろに吸い込まれていくだけとなり、前方に響くものはない。それは何かに吸い取られていくようで、もう道はさほど残されていないのだと訴えている。
後方から響き返してくる弱い声は、せめて自分がそこにいたのだという小さな点にぶつかり、頼りないパルスを見せるソナーのようなものであり。
トボトボと歩いてきた自歴は、支えを持たないともう先に進むことすら出来ないヨボヨボとした狂った方位磁針に取って代わり、気がつけばここを肯定しなければならない砂上の楼閣、その展望台に立っては手に取る双眼鏡。レンズは傷だらけのピンボケでしかなく。
そこで何も見えないのであれば、見えないなりに手探りだけを自らの頼りとして。足元は崩れ落ちるものだとしても、逃れるように前へ。
それでも進むより他にないのだから。細っていくだけの道を。