シベリウスを聴くことは、様々な思いを自分の中に巡らせることでもあり。
久しぶりに聴いた感のあるパーヴォ・ヤルヴィのシベリウス。5番で。
改めて聴き直してみると、ここにあるのは実在感のあるシベリウスであるとの思いを抱いた。それは人間の息吹が確かに存在していることを意味する。
自然文化を観察描画する人間でもあり、またそれと一体となった人間を表しているようでもあり。
美なる自然に人間が取り込まれると、その人間もまた美しいものになるのだろうかなどと、思い遊び至ることもしばし。
または砂楼。音の砂楼が風に吹きさらされ、その形を失っていく様。確かにそこにあったはずが、残るは風紋のみ。
などと。
最初に述べたことの繰り返しになるが、思いを巡らせくゆらせる余白を持つ音楽が、自分にとってのシベリウスであるなと再認識させられた次第。