音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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MOVE / 上原ひろみ (2012 192/24)

上原ひろみは果たしてジャズなのか。

ジャズピアニストであると言えば確かにそうなのかもしれないが、では先の疑問に対しての答えになるかと問われると、どうにも腑に落ちないものがあり。

ジャズなる器に収めるにしては、あまりにもその守備範囲が広いようにも感じられ、またそれは事実でもあるだろうし。

このアルバムはトリオなのでジャズ、なのだろう。だが、一人一人のプレイのみを抽出して捉えるのであれば、それは決してジャズとも言い切れないような。

アバンギャルドであるとも言え、ロックであるとも言え。そして時にクラシカルでもあり。そしてその司令塔こそが上原ひろみであり。

短絡的かつ保守的なジャズ脳が考える所を勝手に想像するならば「こんなのはジャズじゃねぇ」となるのだろう。

それがそのあまりにも即興性の高い演奏の首根っこをつかんでのことであるならば、実のところはより自由度の高い音楽、音楽家であるとも言え。

心の奥底を揺さぶるような音楽の泉から、音を繰り出すことの出来る存在。そこから同時に浮き上がるあぶくが、一つとして同じ形を持たないかのごとく。

揺さぶるのは心だけではない。そのプレイは身体に直接訴えかける。結果、全身を捉えてやまない。

ジャズアスリート。それは安直な表現か。いや、フィジカルに訴えかける演奏スタイルは、聴き手の集中力を極限まで求める。そして体力を消耗させる。精神を高揚させる。実に肉体的ではないか。どうやらこれは決して安直とも言い切れないようだ。

そう、もう一つ忘れてはならないことがある。それはケミストリーの起爆剤としての存在。

ミュージシャンが上原ひろみと手を組んだ時、それは音楽に魂の全てを差し出す時でもあろう。そのような演奏を自ずと求められる。それが生半可なことではなく、また結果としてそうなってしまうことは、聴き手にも十分に伝わっている。

演奏に全てをなげうつ。なげうたせる。その生き様こそがジャズなのか。否。それは何もジャズに限ったことではない。

いや。ジャズに限ったことでないのであれば、すなわち、上原ひろみをジャズにとどめることはできないのではないか。

上原ひろみについての無限ループに入り込んでしまったようだ。

このメビウスの帯はありとあらゆる音楽を飲み込み、裏も表も存在しない、存在させない、決着をつかせることを許さない、深遠なる宇宙の真理を掌握しようとする愚行なのか。そしてその大げさな考えを呼び起こすほどまでに、自分は上原ひろみの掌で踊らされている。

たとえ世界がどれほど広かろうが、宇宙が不可思議のそれであろうが、つまるところは一人の存在の中に自由にそれらは広がっている。これもまた考え方の一つ。

音楽における想像も自由であれば、演奏における創造もまた自由。上原ひろみとはそう言った存在なのだろう。

踊り、踊らせる音楽家、上原ひろみ。そろそろこの程度の結論で許されはしないだろうか。

MOVE

【某所より転載】