酔い寝落ちして復活の真夜中。
酔いながらこの記事を眺め、目覚めた後にしっかりと読み直す。
自分にとってはBig-Oと言う存在よりも、SHAKKAZOMBIEと言う存在が大きかった20代半ば。
改めてこのアルバムを聴き直してみて、その当時の自分は、ここにある風化を寄せ付けない強靱なトラックとMCの素材と存在を、果たしてどこまで理解していただろうかなどと自問自答していた。
それは振り返ってみれば、の話に過ぎないが、SHAKKAZOMBIEは自分にとっての音楽のジャンクションだったのだなと。
このアルバムに限らず、様々な楽曲から受けた、多くのフィーチャリングゲストから広がっていた音楽の枝葉。
個人では結局鳴かず飛ばずに終わってしまったMichicoはその後の安室奈美恵のブレインとなり、saigenjiの存在は自分にとってなくてはならないミュージシャンとなり、Northern Brightとのコラボレーションではヒップホップはロックのトラックとの親和性が非常に高いことを知らされた。
再びこのアルバムに視線を戻せば、音楽に没頭することで現実から大きく目を背けていた当時の自分が思い出され、その位置からどれほど地に足をつけることが出来るようになっただろうかとまで、考えは淀みなくそして漠然と広がっていく。
このドープなサウンド、その総体は今にむしろその輝きをいぶし銀に変えながら、きっとその後へとバトンリレーしていくことだろうと。
その後とは自分と言う存在の中にある時間軸のつながりにおけるその後であり、もちろん音楽を愛する多くの存在という大きな対象としての存在でもある。
夜中に広がり続ける考えも、朝を迎えれば太陽の下に収束し集約されていく。ここにあるサウンドは夜に自分の心を満たす音楽の麻酔のようなものであり、また、やはり今でもまだ現実から逃れたいと泣きべそをかいている、自分の中にいるピーター・パンを慰めるためにレイドバックしながら聴くためのものでもある。
考えをあちこちに分散させながらも、その芯はこれらトラックの下にあり。それが今日、現時点での自分の思考の記録。記録物は消えてしまわない限りそこにあり続ける。
自分を拘束するなら、そこへ飛び込み直すなら今だ。
2000年の自分の記録はあまりにもエッジが強すぎて、その文面を前にすると目眩をおぼえるほど。
2022年の自分の存在は、あまりにもなまくらで立ちくらみがする。それはメンタル的にも言えるが、時にフィジカルにも来るのだから老化は恐ろしい。
だからこそ風化をおぼえない音楽に頼り、そこにすがるのだ。
そう言う話。