歳を取ると同時に新譜を聴く上での勇気が必要になってきた。自分の体調にインプレッションが引きずられはしないか、作品の内容に裏切られはしないか、抱いた印象は本当に確かなものなのか、などなど。自分の中に存在する外野のノイズが年々大きくなっていくのを痛感しながら、重い腰を上げて新譜の再生アイコンをタップする。
届けられたGAKU-MCの新譜もそう。数日間はリッピングしたHDDの中に収められたままだった。耳に馴染んだ作品ばかりを優先して、いつまでも先送りするかのようにも思われていた。
いつまでそうしていてもらちが明かない。再生した。そこにあったのは、今でもまだ瑞々しいラップチューンを繰り広げているGAKU-MCの姿だった。
自分が衝撃を受けたアルバム『word music』のリリースから既に24年が経過。自分もGAKU-MCもそれだけの年齢を重ねた。青く若く突き抜ける空のごとくライムを繰り広げるGAKU-MCがそこにある一方、ここにいる自分はどうだ。音楽に対する感性の動脈硬化を起こしてるなどとうそぶいては、新鮮な新譜がリリースされないなどというあり得ない言い訳を盾に、何かをシャットダウンさせてはいなかっただろうか。
GAKU-MCは背中を押す。人間はいつまでもいつまでも、いつまで経ってもしくじり続けるけれども、それもまた人生だと。日々に繰り返しなどはなく、生きている限り明日はやって来ると。
日々の移ろいの中で蓄積する疲れを抱き、重い身体を引きずっては毎日をやり過ごし、やり過ごした中でカレンダーだけが次々にめくられていくのをただぼんやりと指をくわえるかのようにして眺めていたのは間違いのない事実。それを自覚しているのだから。
自覚の中で変化を恐れるようになってはいなかったか。安寧と安穏を下敷きにして、その上をただ滑っていくだけの日々を送ってはいなかっただろうか。いや、送っていた。
この歳になって「がんばろう自分」などと臭いフレーズを掲げて前を向くだけの日々は必要ないのかもしれない。自らがそれを謳う必要はない。それを何か外から得ることが出来れば十分なのだ。必要に迫られた際に適宜他人の言葉を盗んで一抜ければそれでいいじゃないか。
GAKU-MCは自分が前を向くための沢山のワード、フレーズを今でも次々に与えてくれている。それは決して大上段による言葉ではない。同じ目線による同じ温度による同じ境遇による教えを再認識させてくれるかのように。
そしてそれらは決して真新しいものではない。GAKU-MCの中にあり、自分の中にもある、これまでの人生経験の中で埋もれてしまっていた生活の知恵のようなものの数々、それらを放り込んだままにしていた壺をのぞき込んでいるようなものなのだから。
だから前を向こう。針を落としはしないけれども再生のアイコンはタップしよう。自分自身も再生、いや日々を再構築し直そう。肩肘張らずに、気負い過ぎずに、適度に自分の速度で歩み直そう。
