音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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音楽映像物を立て続けで3本観る(JUJU&上白石萌音&Foo Fighters)

休みだというのに一日中激しい雨の予報。事実土砂降りに近い雨。仕方がないので録りだめていた映像物や開封していなかったBlu-rayディスクを、朝からヘッドホンを使って鑑賞。

・2024年のJUJU@東京ドーム
・2023年の上白石萌音@東京国際フォーラム
・2008年のFoo Fighters@ウェンブリー

立て続けに観た。どれもこれも素晴らしい内容でありました。

JUJUは改めて昭和歌謡の持つ威力のようなものを再確認させられた次第。楽曲が持つ強いインパクトと普遍性の強靱さは見事だよね。

「もうこの曲は国歌レベルじゃね?」などと思わされる曲もあり。

加えてJUJUは生歌の方が断然よいね。ディスクパッケージ物で聴いてもピンと来なかった部分が、ストンと受け入れられた。

上白石萌音のライヴはいつもほんわかとした気分にさせられる。俳優ならではの表現力と間違いのない素直な歌唱力に感心と安心をおぼえるのだよね。

このライヴには足を運べなかったのだけれども、やはり行っておけばよかったと思わされるあたり、メロメロになっていることの証左ですな。

Foo Fightersはついでに観たのだけれども、これまた素晴らしいスタジアムライヴ。バンドのアグレッシヴな演奏も素晴らしければ、オーディエンスの反応も素晴らしい。日本のライヴではなかなか見かけることの出来ない光景ですね。

ライヴ終盤にデイヴ・グロールが感極まっている様は、見ているこちらもじわりときてみたり。

まだまだ録りっぱなしになっている音楽映像物は沢山あるので、次々に片付けていきたいのだけれども、これがなかなかどうして、重い腰を上げるまでが大変ですな。見始めれば今日のように、一気に数本やっつけられるのだけれども。

TOKYO GIRLS TALK / 高田みち子 (2008/2022 44.1/16)

リマスタ盤が届きましたよ。

このところ自分内赤丸急上昇でこのアルバムが好きになっている。2008年のリリース当時よりも格段にが増している。

「青春の残照」で何か一本書きたいと思っていたところに、先のアーティクルの稲葉浩志がデンと出てきてしまったので、高田みち子さんは先送りに。

だってあなた「青春」の「残照」ですよ?たとえそこに音楽がなくとも、この単語の並びだけでも感じ取れるものがある。それで何も書けなければ嘘が過ぎるでしょうて。

それはさておいても、名盤であるな。今でこそシティ・ポップ扱いされているけれども、またその括りとは微妙に異なる、カテゴライズの困難な魅力に満ち満ちた作品なのだよね。シンガーソングライターとしての上品な香りにくすぐられる作品とでも言いますか。

TOKYO GIRLS TALK

只者 / 稲葉浩志 (2024 Spotify)

疲れ果てて帰る週末の地下鉄は10分遅れでやって来る模様。ホームにたたずむ自分の耳には稲葉浩志の声。

相も変わらず弱い自分を、強くも儚い彼の詞(ことば)が叩きのめしていく。

あるのは応援でも同情でもなく、ただそこにいる一人の男と、ここにいるただの一人の男との対比。それを如実に、あまりにも残酷に描き出し暴き出していく無情な歌声。

詞にあるのは現実。まごうことなき現実。絵空事も夢物語もありはしない。現身がここに立っていることそれが全てなのだと強靱な喉仏を震わせて歌い迫る。

いや、私だってここにしかと立っていると薄い胸を張る。もちろんそれは虚栄がなす哀れな影。泳ぐ眼と竦む足。その姿を嗤う私の中にいる誰か。

形を持たない誰かの嘲笑が、ここまでの愚行を省みよと後ろ指をさす。かつての日にいた私を俯瞰し凝視している。

情けのない身体を寄せ合うあの部屋に、果たして心の交歓はあったか?

強い言葉を操っていると思い込みながらも、道に背を向けていることを誤魔化してはいなかったか?

いくつもの問いかけが自らの中を漂い、答えは像を結ばないうちに霧散していく。

全ては己の所業なのだと口にするのは容易なこと。逃げ道を与えない正義は暴力。己に与えた心の裏口からの逃亡は許されるだろうと、自白者の憐れな表情を顔に貼り付けては我に返る。

まだまだだ。私はまだダメだ。

身体を泳がせ言葉を漂わせ、あの手この手で線を引いては非武装地帯に身を寄せている。かわいい己を愛し続けるただ一人の男、そう、どこにでもいる、ゴロゴロとそこら中に転がっている己をまだまだ愛し続けてもいいだろう?

稲葉浩志の少し強い言霊が、自分の胸の中にある背徳を少しずつ撫でて均していく。己の中に持つバネを信じてまだ跳ねていてもよいのだと、自信を持たせてくれる。

添う影が切り離されることのない限り、まだ歩くことは許されるのだと。そのように。

NEW ALBUM『只者』 (通常盤) (CD)

ベートーヴェン:交響曲第7番 / パーヴォ・ヤルヴィ, ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン (2006 44.1/16)

ドイツ・カンマーフィルのキモはこのバネの強さと鋭さにあるよね。

先に聴いた、近年レコーディングのペルトコスキのモーツァルトと言い、もう20年ほど前になる(!)パーヴォ・ヤルヴィによるこのベートーヴェンと言い、その個性はとにかく瞬発力にあるよな、と再確認しながら。

出音の一発で「あ!これ!」と感じるのですよ。

パーヴォ・ヤルヴィにはもちろん独自の手癖はあるけれども、奇をてらう指揮者では決してないので安心して聴くことが出来る。氏ならではのカラーを自分が認識したのはやはりこの演奏からなのだなと、自らの原点を再認識する意味合いも込めて聴いた次第。

ベートーヴェン:交響曲全集

自分の中では「ティンパニのパーヴォ」なんですよ。

モーツァルト:交響曲第35番《ハフナー》&第36番《リンツ》&第40番 / タルモ・ペルトコスキ, ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団 (2024 96/24)

2000年生まれの俊英コンダクター、タルモ・ペルトコスキとドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルトの交響曲集。ドイツ・グラモフォンからのリリース。

全編を通して解像度の高い、カリッとした仕上がりのモーツァルト。モーツァルトだからと言って、ステレオタイプな雰囲気になりがちな甘さを許さない、それらを一切排したかのように鋭く、かつコンパクトなサイズ感で展開される。この鋭さは好みが分かれるところかもしれないが、作品が持つ体温の高さはしっかりと存在している。

フルオーケストラでのモーツァルトが時にやや胃もたれを起こすことがある身としては、ドイツ・カンマーフィルによるこの演奏は程よく感じられる。楽器一つ一つへのフォーカスは明確であっても、楽曲の流れは実に滑らか。この快闊な滑走感がよろしいね。

幕間的に挟まれるペルトコスキによるインプロも興味深い。モーツァルトの時代から現代のポップスまでを飛び越えながらも繋いでいく橋渡しであるかのような解釈と演奏が楽しめる。その演奏とアレンジのサービス精神旺盛なところは、ペルトコスキの若さ故なのかしら?などと微笑ましくも思われながら。

この作品集に収録されているモーツァルトは、そのポップス性の高さ(ポピュラリティの意も含め)が十分な作品ばかり。クラシック音楽がポップス?と思われるかもしれないが、モーツァルトの間口の広さと取っつきやすさと言った方向性は、現代ポップスのスタンスに繋がっている要素が多分にあると常々考えているので。

したがってペルトコスキの解釈と創造はオーセンティックなのでは、とも。それを表に出すか否かと言う、表現の発露の強さは別としてね。

総じて良いですね、このモーツァルト。年齢にふさわしい溌剌とした指揮ぶりがオケにも乗って、心地よい相乗効果を生み出しているように思える次第。

モーツァルト:交響曲第35番《ハフナー》・第36番《リンツ》・第40番

年齢といい風貌といい、まるで指揮棒を持ったハリー・ポ…いや、なんでもありません。ふとそのような連想をしてしまっただけです。しかし2000年生まれの指揮者って…なんと言う急激な世代交代劇の始まり、と言った感がありますよ。

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 / ジャニーヌ・ヤンセン, クラウス・マケラ, オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 (2024 96/24)

シベリウスのヴァイオリン協奏曲とは、これほどまでに鋭く、接するに恐ろしい表情を持った曲だったのか。今の今までその側面を知らず、気付かずに聴いていたのかもしれない。

終始ヴァイオリンの音色に緊迫感が漂ってることと、オケを含め、その音に聴き手の自由な解釈を挟む余地を与えない、そのような隙を持たない作品であるように、今日は思えたのだよね。

シベリウス作品独特の人外的描出が極まった作品が、本作なのだろうか。人間同士のプロトコルとは異なる次元での会話が繰り広げられているかのよう。正直なところ、今、微妙に困惑している。このような印象を抱くとは思いもよらなかった。

この印象は、今後この作品の他の演奏に接する際の一つの基準になるのかもしれないな。

シベリウス&プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 (UHQCD/MQA)