音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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WiiM Amp Ultra 導入記&レビュー&オーディオに対する思いの丈(導入記&レビュー編)

WiiM Amp Ultraを導入しました。そこに至る経緯は先のアーティクルに記したとおりです。

particleofsound.hatenablog.com

ここでは導入記とレビューを中心に記していきたいと思います。

開封の儀は動画サイトに多数ありますので、ここでは割愛。導入するに当たっての最大のネック、関門だった内容をまずは記します。

もしこの関門が突破出来ないのであれば、WiiM Amp Ultraは突き返すしかないとまで思っていました。それはスピーカー端子の幅です。公式サイトで見ても、どうにも雰囲気がつかめなかったのです。

WiiM Amp Ultra背面

このバナナプラグ端子差し込みの間隔が問題でした。自分が使っているスピーカーケーブルは、前アンプにあわせてYラグ、それも大きいサイズのものでした。しかも完全にケーブルに組み込まれている特注品です。端子だけを交換することもできません。

文字通りに恐れながら、実機に付属のプラグ用変換端子を差し込みました。

スピーカープラグ変換端子を差し込んだところ

なんとなく行けそうな気がしてきました。そしてケーブルの接続です。

行けた!

行けた!干渉しない!問題ない!

この時点で今回のWiiM Amp Ultraへのリプレイスは7割方成功を約束されたと確信しました。

ここまで来たら、あとは嬉々として結線作業を進めるのみです。そして作業が完了、電源を入れるとすんなりとWiiM Amp Ultraが立ち上がりました。もちろんスマートフォンとタブレットにはWiiM Homeアプリをインストールしてあります。

再生させての出音一発目のインプレッションは…。

あれ?

こんなもん?

もっと、もっと、やれる子じゃないの?

明らかに音が眠いのです。これでは前アンプからの置き換えは大失敗になり兼ねない。

そこでふと思い出しました。オーディオの師匠様が「デジタルアンプでも電源を入れてから本気出してくるまでに時間がかかる」と言っていたことを。

少し安心をして、まずはWiiM Amp Ultraを導入する上での最大のメリット、期待している機能に手を出します。RoomFit機能です。

部屋やスピーカーの特性にあわせて、自動的にキャリブレーションをしてくれるもの。2年前にこの部屋に引越してきてからというもの、どうにも低域の処理が自分の望むようにならない、ままならないと感じていたのです。それを改善してあまりある機能であることも期待して、本機を導入しようと思い立ったという背景もありました。

リスニングポジションでiPad miniを耳の位置に掲げ、スイープ音を感知させること約2分弱。こんなん出ました。

部屋の現実と理想と努力の跡

へぇ、こうなっていたのか…とグラフで現実をつけられ、そしてそれに対してWiiM Amp Ultraは瞬時に解決策を施してくれる。私は自動処理に身を任せるのみ。

果たして出音はといえば、「これだ!」と思わず膝を打ってしまうかのような音が。

出音に対するインプレッションは主観でしかありませんが、それでもあのいやらしいまとわりつくような低域は消え去り、躍動感ある低域の出音に。中高域のツヤ、煌びやかさ、何よりもSACDを再生させた際のエア感の美しいこと美しいこと。

まだまだ導入したばかりだというのに、クラシック音楽を2枚通して聴いてしまうほど。聴き惚れるのです。音がより一層見えてくるのです。音楽を音楽として雑念なく楽しめるのです。こんなに素晴らしいことはありません。本懐を遂げました。

RoomFit機能によってWiiM Amp Ultraの本領が発揮された感がありました。これならばリプレイスはもうほとんど成功したようなもの。

そしてWiiM Homeアプリを漁り、いじり倒していると「DACデジタルフィルタータイプ」なる設定項目が。開いてみて唖然。デジタルアンプなのですから、なるほどこのような設定が出来て然るべき。早速片っ端から出音を聴き比べたのです。

DACデジタルフィルタータイプ

設定値によって出音の印象はずいぶんと変わってきました。まだまだ追い込む余地はあるようです。

このような浮かれ具合のまま翌日を迎え、また再び音を聴いてみると、なんだかアレだったのです。中高域がうるさい…。昨晩感動した中高域のツヤはソースによっては耳に突いて刺さる感がありました。

これは間違いなく電源周りの対策が必要です。WiiM Amp Ultra付属の電源ケーブルは貧弱な付属品のそれ。ミッキータイプの端子と相まって、これをどのように改善したものかと、頭を抱えること少々。

困った際にはAmazon。探してみるとミッキータイプ端子と通常の3Pに変換するアダプタをあっさりと発見。前アンプで使用していたACROLINK 7N-PC4030 Leggendaを変換接続させて音を出してみると、激変。途端にどっしりと腰の据わった音に変貌しました。

しかし見てくれは最悪ですね

これです、これ。ここまで追い込みました。音楽だけに没入出来る環境がほぼ出来上がりました。今までのオーディオシステム経験でも培われたことは沢山ある!

あとはゴム足にインシュレータを敷き、細かなセッティングを詰めて、ある程度完了。再度出音を確認すると…ああ、前アンプの音への印象をきれいに上書きしてくれます。ソースに選ぶジャンルもあれこれザッピングしてみて、上々の仕上がりと判断。

アンプのリプレイスはかくして、三連休をほぼ丸々使い切っての作業となりました。

これにてWiiM Amp Ultraの導入初期にまつわるあれこれは終了。導入した甲斐がありました。

そして主役のいない今のオーディオに至る

最後に細かな備忘録を。

■デジタルアンプだもの■
デジタルアンプですもの、LINE-INからの信号はデジタルに変換されて内部で処理されるのです。それを失念しておりました。なのでSACD30Nから送り出されたSACDのアナログ信号も、デジタルにサンプリングされてしまいます。

しかしその数値的な変換に対する不安は杞憂に終わりました。出音が全てを物語ります。SACDの音はSACDの音として現れます。

数値は数値でしかなく、音をどのように表現させるかがオーディオ機器の腕の見せ所。その要所をしっかりと押さえているのがWiiM Amp Ultraです。

選択調整も可能だしね

■Qobuz再生について■
ストリーミング再生に関しては一切の心配が無用でした。WiiM HomeアプリからQobuzを立ち上げたとしても、インタフェイスはQobuzのそれに近しいもの。分かりやすいです。

むしろmarantzが採用してるHEOSアプリの方が、Qobuzでのライブラリ漁りには若干のコツが必要かとも思われるほど。

QobuzConnectは時折機器を見失うことがあるので、Qobuzからの再生処理はWiiM Homeアプリに任せてしまってもよいかと。

音質は何を問題にすることがあろうかと。

WiiM HomeアプリからのQobuz操作画面

■バッファでコケませんか?■
今のところ、Qobuzでどれだけ楽曲をザッピングしてみても、楽曲冒頭のバッファでコケたと思われるシーンには遭遇しませんでした。

SACD30Nからの再生では時折冒頭でずっこけることがあるのですが、その点WiiM Amp Ultraはストリーミング再生を前提にしているアンプですから、対策は万全なのかもしれません。

■NAS内ファイル再生について■
Soundgenicからの送り出しもスムーズ。NAS内のライブラリに対してスマートにアクセス、再生が可能です。もちろんネットワークの同ノードにぶら下がっているPCがTuneBrowserなどのアプリを起動していれば、PC内のファイルを再生することも問題なく出来ます。

■NAS内ファイルをどのルートで再生させるか■
Soundgenic内ファイルを再生する際に、LANのみの経由でWiiM Amp Ultraへと送るか、SACD30Nを経由してLINE端子に送り込むか。

この点は自分の中でまだ決着はついていません。利便性や本体にディスプレイさせる喜びといったガジェット娯楽的側面からすると、圧倒的に前者の方が楽しめます。

最大の問題は音質がどうであるか。

実のところ、こればかりは好みではないかと。好みで分かれる程度の差異にてインプレッションが語られるような気がします。実際、今の自分がそうですから。信号の経由ルートを完全同一比較出来ない以上は、その違いを楽しむのも一興かと思うのです。

そこまで神経を尖らせて音質を追究するのであれば、最初から自分はアンプのリプレイスには踏み込みませんね。

■Wi-Fiか有線LANか■
迷うことなく後者を選択します。

もちろんWi-Fi環境でも問題なく動作してはくれました。しかしながらオーディオ用にネットワーク機器を固めつつある身からすると、それで敢えてWi-Fiを選択する意味はないかと思われます。

■HDMI入力について■
あまり語る資格を持ちません。なぜなら自室のGoogleTVの内蔵コンバーターが貧弱だったようで、48/16でしか出力しないことが判明したからです。これには愕然とさせられました。諸々、自分の聴感の甘さを突きつけられたような気分にも。

さておき、問題はBlu-rayプレイヤーの24bit音声信号をどのような経路でWiiM Amp Ultraに入力させるか。同時に、テレビからの音声を無理なく無駄なく入力させるかです。

この点については、既に導入していたHDMIの音声分離器を継続して使用することで解決させました。

Blu-rayプレイヤーのHDMI出力から音声分離器へ。そこから音声は光接続でWiiM Amp Ultraへ。HDMIはそこからテレビへ。これで映像系だけをテレビに送り出すイメージとなります。

テレビのHDMI出力からWiiM Amp UltraのHDMI端子を接続し、GoogleTV内アプリからの音声信号を受け取ります。GoogleTVの音声のみをHDMIで送るイメージです。

これによってテレビの音声的性能にBlu-rayプレイヤーからの音声信号がスポイルされることがなくなります。

これもWiiM Amp Ultraの入力系統が必要十分に確保されているからこそ出来ること。ありがたいことです。

以上が備忘録でした。

これにてWiiM Amp Ultraの導入にまつわるあれこれファーストインプレッション、終了!

WiiM Amp Ultra 導入記&レビュー&オーディオに対する思いの丈(思いの丈編)

標題の通り、WiiM Amp Ultraを導入しました。ストリーミング対応アンプですね。7年間使ってきたAccuphaseに別れを告げての、ある意味において英断、また別の意味においては当然の帰結でした。

この10年ほど、重厚長大な元来の…いわゆる「オーディオ」に大きく没入し、また、ハイエンドエントリーとも呼べる機器も導入、使用してきました。それらは学生の頃からオーディオをかじっていた自分にとっては、夢のような日々でもありました。

ところが音楽を聴く・堪能するためのオーディオではなく、オーディオを聴いている自分がいることに気がつき始めました。もちろんオーディオなるものを導入する以上、どのような観点で音を聴こうが何も問題はありません。それでも何かが本末転倒になっている、どこか違和感のようなものを覚え始めたのも事実でした。

自所有機材の中でもハイエンドエントリーオーディオ最後の砦であった、Accuphaseの存在が何かしら重圧であるかのようにも感じられ、果たして今の自分は音楽鑑賞をする上で本当に幸せなのだろうか、と自問自答をすることもありました。

このブログにも何度か記してきましたが、ここ数年、脱・Accuphaseを強く意識している行動にも出ていました。小型アンプをテスト導入してみる、小型スピーカーをサブスピーカーとして使用してみるなど、それらは今に至る過程において、とても重要な模索でもありました。

とどのつまりオーディオの重圧に負けたのかもしれません。もっとカジュアルに、もっと音楽そのものに没入するための気分的な環境作りが必要なのだと思うようになってきたのです。

WiiM Amp Ultraを導入する事によって、オーディオ、それもいわゆるピュアオーディオの世界からは足を洗ったような清々しさをおぼえています。もちろん今現在、自分の正面にはFocalのフロア型スピーカーが陣取っていますし、ロリン・マゼールのマーラーを送り出しているプレーヤーはmarantzのSACDプレーヤーです。

それでもオーディオを司る心臓部、アンプがAccuphaseからWiiMに置き換わったことで、視覚的にも、場所的にも、物理的にも、そして何より精神的にも、ピュアオーディオよさようならと手を振り、次のステップに足を踏み入れた気分に浸っている自分がいます。

そのようにあっさりと古典的オーディオから足を洗える、抜け出せるものなのか?と問われるかもしれません。

抜け出せたのです。それはなぜなら…

WiiM Amp Ultraがあまりにも「出来る子」だったからなのです。

そのような流れで、次は「導入記&レビュー」編です。

particleofsound.hatenablog.com

在りし日の姿

Bob Mould, 4:00 a.m.

午前4時のボブ・モウルド。心の中に怒りはまだあるか?

宗教、性、政治、エトセトラエトセトラ。ありとあらゆる敵に囲まれ攻撃されている自分を妄想癖であると後ろ指指すのであれば、指しているその背中もまた同じように指されていることには気づくまい。

怒りは何も生まないと言うのであれば、人は何のために怒りという感情を有しているのかと問う。

心の中に沸き上がるマグマは噴出しない。なぜなら静かに、つとめて静かにとどめているからだ。煮えくり返る腑(はらわた)も、熔けそうになる感情も、形をここにとどめさせるべく、つとめて静かに距離を置く。この小さな身体の中で、最大の距離を置く。

諦めと怒り。何も生まないのはどちらだ。アパシーにつながる彼奴と、攻撃につながるこのエネルギーと、どちらが動力を有してるのか、それは一目瞭然ではないか。

怒りを鎮めろと人は言う。振り上げた拳なら、それを下ろせと人は言う。投げようとした感情の描くはずだった放物線が、初動を持ちながらも行き場を失うのであれば、原点に残されるものは燃えたぎる溶岩なのではないか。理性を持っているとうぬぼれている奴らがそう口にするのは、あまりもの熱で誰も触れることが出来なくなるそれが生成されることが目的なのか。

怒りの矛先がたとえ定まっているとして、形にならない怒りをそこへ向けたとて、何が変わると言うのか。炎を宿す静かな眼差しが向けられた先にあるもの、その全てを焼き尽くせるのならば、人は静かに見つめるだろう。その全てを静かに。

火を点けるな。火は自ずと点くものだから。燃やされるのではない、お前は燃えるのだ。勝手に独り燃え堕ちるのだ。

怒りが炎であるならば、炎の周りに水の幕を張れ。その熱を一定にとどめろ。そしていつまでもいつまでも火をくべ続けろ。それが人の原動となるならば、命尽き果てる最期まで、炎を瞳の奥底に宿し続けろ。火を消すんじゃない。

午前4時のボブ・モウルド。私の心の中に怒りはまだある。

理不尽を理不尽とも思わない世界に対し怒りはまだある。神の名の下にそれを認めさせようとする世界に対し怒りはまだある。

最期まで、怒りはあり続ける。

Bob Mould, 4:00 a.m.

このところちょっと(20260225)

1.
今さらですが、BoAってこんなに格好よかったのか!(伏線)

2.
バランスピダックを入手しました。4.4mm接続用ピダックですね。

結論、素晴らしい。有線ピヤホン3に接続して使用しているのですが、このイヤホンの特性を最大限にまで引き出してくれるようで、ここまで表情豊かな出音のイヤホンだったのかと今頃になって気がついたのであります。

ノーマルなピダックと有線ピヤホン5とのコンビネーションが解像度とパワーに重きを置いているのならば、バランスピダックと有線ピヤホン3との組み合わせは音場と表情を引き出すことを目指しているのではないかと。

二者で方向性が異なることは諸手を挙げて賛成であります。同じ傾向の音になるのであれば、わざわざ別々にリリースする意味もなくなってしまうわけで。

このピダックとバランスピダックの存在のおかげで、スマホがDAPとして非常に有用になるのであります。DAPを持ち歩くほどでもないけれども有線ピヤホンの音を楽しみたいのであれば、スマホとこのピダックを持ち歩けばよいわけで。

DAPはDAPとしての存在意義があり、ピダック&スマホの組み合わせにももちろん意味があり。素敵だ。

バランスピダック

3.
で、そのピダックを試しにDAP、FIIO M21に接続してみたのです。膝折った。

スマホの音は所詮スマホだ…。もちろんピダックを使用することで出音はDAPレベルのクオリティにまで引き上げられるのですが、そのさらに上を行く出音。餅は餅屋ですな。

だからと言ってDAPとピダックを持ち歩くのではあまりにもパラノイアなので、それはそれ、これはこれ、と分けて考えるのであります。

…分けて考えたいのであります(動揺している)。

4.
上白石萌音さんの新譜、またしてもいいっすね…。

ボーカルの純度がまた一段高いレベルに上がったように感じられました。アルバム全体としてのトータルなクオリティも素晴らしい。決して派手な作品ではありませんが、滋味深さという点ではキャリア一の仕上がりになっているのではないかと。

ラストトラック「なんでもないや」に至っては、あの頃の上白石萌音を彷彿させながら、確実に今の上白石萌音であるという、そのレイヤーが見えてくるかのような仕上がりに感動したのであります。

texte (通常盤)

5.
ブラームスの交響曲第4番は、実はHIP寄りの現代的な演奏よりも古典的に重厚な、粘り気を持ったような演奏の方が好みかもしれないと思い始めました。

定時でスチャッと上がるような潔い演奏も、それはそれで気持ちよさはあるのですが、溜めるべきは溜める、ぐっと踏み込むべきは思い切り踏み込むそれの方が、ブラ4を聴いたぞというカタルシスが得られることに気がついてしまったのです。

他のブラームスの交響曲ではそこまで違いにこだわりは持っていないのですが。これは一体どう説明したらよいものなのだろう。

6.
SACD漁り…と言うほどのものではありませんが、BoAの昔のベストアルバムがSACDでリリースされていたことを知り、いつか聴いてみたいなと思っていたのです。

玉数が少ないのか中古市場にもあまり多くは出回らず、機会を窺っていたのですが、ようやくどうにか真っ当な価格でゲット。そして喜び勇んで聴いてみたところ…

あれ?BoAってこんなに録音に金かかっていたのか!とあの当時から20年が経過してから気がつく真実。出音の張りがとにかく格好よい。パンの振り方も聴いていて心地よいこと極まりない。素晴らしい。これはよいSACD!

ボーカルも表情豊かで、今頃になってその歌唱力に驚かされたりもするのです。確かに好きなボーカルではあったものの、ここまでだったかと。

BoAさん、かっこいいっす

7.
NW-ZX300の前オーナー、もしかするとバランス端子はあまり使っていなかった?聴いているうちに音がパキッとしてきましたよ。

これまでは有線ピヤホン3の出音のせいでやや眠い音なのかと思っていたのですが、いやいや、どうやらそんなことはないようで。

ということで、最近持ち歩くDAPはもっぱらNW-ZX300なのです。本当にこいつの音が好きすぎて。

8.
来週の月初三連休にメインオーディオの大幅な機材入れ替えをする予定です。重厚長大よ、さようなら、になるかと。多分。

9.
最後に。

先日、LUNA SEAの真矢が亡くなりました。真矢なら病魔に打ち勝てるのではないかと願っていましたが、それも叶わず。

LUNA SEAのリズム隊、Jの強烈なダウンピッキングを特徴としたベースと、そしてバンドアンサンブルの中の、楽曲に表情をつけるドラミングを特徴とした真矢の存在があってこそ、花形のギターとボーカルがそこに存在しているという、本当にバンドの黄金律のようなものを形成させるべくキーマンだったと思っています。

ドラムもバンドの花形たりうると、そのようなことを知らしめていた存在でもあったと。

ご冥福をお祈りします。

10.
そんなこんなで。

One Deep River / Mark Knopfler (2024 192/24)

鬼門の2月がやって来ました。

ここまで調子も下がらずにやって来たので、今年こそは乗り越えられるかと期待していたのですが、残念ながら先日から急激に失速。本日朝にはその最低ラインにあっさりと到達し、遅刻で出社という無様な姿をさらしたのであります。

出社したはよいが、頭の中は全く使い物にならず。今日中に処理しなければならないタスクだけを最低限こなして執務室から退散。別室でぐったりしながらイヤホンで静かに音楽を。

たまたま流れてきたSimply RedとMark Knopflerに癒され、久しぶりに後者を聴きながら帰宅しようと決め、17時過ぎまで屍状態を満喫し、軽く残務を処理。定時に上がって帰宅し、そして今であります。

通勤の復路も帰宅後もMark Knopfler。ジャズでもクラシック音楽でもなく、ノップラーおじさん。静かに、静かに、内向きに静かに。かといって自分の現状を見つめすぎることなく、適度にやり過ごす程度のつき合いで。

歳を重ねた最大の収穫は、この自分の現状を見つめすぎないこと。40代の半ばまでは、自分が失速するとその理由をとことん探って、とことんそれを潰そうと躍起になり、その結果自分が潰れる悪循環に陥っていました。自分が自分に耐えられなくなっていたのでしょう。

今となっては笑い話レベルのものではありますが、あの当時は本当に辛かったという記憶だけが残滓のように心の奥底に残っています。あそこには絶対に戻りたくないと思いながらも、もう戻ることはないだろうと安心感をもっているのもまた事実。

音楽を聴きながら、このようなよしなしごとを無駄に書き綴り、自分の中の澱を外部に放出する。捨て去った先に何が起きるかなどはこれっぽっちも考えたりはしない。自分の中のごみ箱にたまっているものを、共用のゴミ置場に出しているだけの話。そこで誰が中身を漁ろうが、何をされようが、もう自分のあずかり知らぬこと。そこまで関与してもいられません。

自分と外とを切り離せるようになったことの、この身軽さは50代が進むにつれてさらに、本当に無責任に思えるほどに深化しています。おそらく気楽になっているに違いありません。だからこそ今の自分もそのゴミ置場に、自分の中にまとまったゴミを捨てに出ているのです。

ノップラーおじさんが歌っている歌詞の内容はこれっぽちもヒアリングはできません。ただその雰囲気から自分の都合のよいように解釈しているのみです。だからこそ内側へと向き合い過ぎず、音楽を適度に利用することができているのです。心の澱を洗い流し、心の襞をリフレッシュさせる作用。それもまた音楽が持つある種の浄化作用なのかもしれません。

こうして今日をやり過ごし、また明日へと備える。明日は明日の風が吹く。もし明日がダメならば、またその次の日に期待すればよいだけのこと。今日という日がたとえダメな日であっても、それも時間と共に終わりを迎えるのです。時間が持つ区切りを発見した人に、心の底から多大なる感謝を述べたいほど。

さて、もうしばらくノップラーおじさんのメロディと歌に耳を傾け、残り数時間のこの日が終わるのを待ちましょう。2026年2月13日。こんな日でありました。

One Deep River

だから私はパーヴォ・ヤルヴィが好き

とどのつまり、私はパーヴォ・ヤルヴィが作り出す音楽の世界が好きなのです。

と、カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとのベートーヴェン第3番を聴いて思うに至ったのであります。

指揮者によって演奏やこちらに届いてくる音の解釈が大きく異なることは、私がクラシック音楽に傾き始めた頃からうっすらと理解していたものではありますが、その早い段階からパーヴォ・ヤルヴィの音世界にはすっと引き込まれていたように思います。

当時は音楽として私にとってわかりやすく音を伝えてくれる存在としての指揮者だったのでありますが、今では、ヤルヴィが指揮をするのであれば、きっとその音楽を理解する取っかかりは明快に与えられるだろうと、信頼をもって聴くに挑むことができるのですよね。

その理由はどこにあるのだろうかと考えてみると、紡ぎ出される音に小難しさを感じることが少ないのです。もちろん根本的に難しい作品が難しいのは当然の事として、ヤルヴィが掘り下げて理解し、それを指示し、指揮し、そして音として構築してくれているその過程で、私の耳に届く上での最良の濾過がなされているのだろうと。だからこそ、音楽として明朗に感じられる内容が出来上がるのではないでしょうか。

それは私との相性と呼んでもよいものなのかもしれません。

カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとの一連の録音物は、人によっては八艘飛びの結果にも映るかもしれません。確かに闊達な歌い口のそれは、先に述べた明朗の極みにあるようにも思えます。その極みが極端なものとして捉えられるかもしれません。

それでも私にとっては、クラシック音楽も有しているはずの分かりやすさを、明快に提示し、理解を深めてくれる指揮者としての存在の方が大きいのです。カンマーフィルハーモニー・ブレーメンだけではなく、トーンハレ管弦楽団でも、ベルリン・フィルでも、パリ管弦楽団でも、その他楽団においても、やはりその印象は統一してあるのです。

私にとって耳に馴染みが薄い作品であっても、「聴き所はここだよ」と要所で喚起してくれる存在でもあります。だからこそ、ヤルヴィが指揮をするなら、その作曲家を、その作品をちょっと聴いてみようかという気にさせられるのです。

好きに理由などはないとも言いますが、どうせ好きになるならば、理由ははっきりさせておいた方がよいのです。

もちろん他の指揮者が作り出す音の世界、それがヤルヴィとは異なるベクトルであっても、好きな演奏は数多く存在しています。それらもヤルヴィとの差異があるからこそ好きになっている側面もあります。

今の自分のクラシックに対する視点は「ヤルヴィだからこう言った解釈なのだろう」「ヤルヴィはあのように解釈しているけれども、かような解釈もあるのだな」と、どこかしらにヤルヴィの存在と解釈が軸になっているようにも感じられるのです。

それはある種の指揮者依存なのかもしれませんが、依存する指揮者がいること、それも現役の指揮者であることは、実のところこの上ない僥倖なのではないかと。この幸せはもっともっと、最大限にまで噛みしめてよいはず。

だから私はパーヴォ・ヤルヴィが好き。私からの一方的なものであっても、相性がこれほどまでに抜群なのだもの。だからもっともっとそのタクトで、私をクラシック音楽のさらなる深淵にまで連れて行ってくださいね。

そうだよね?ヤルヴィさん

眠れない夜にはクラシック音楽で

標題には現在の胸中と現実と誇張が混じっております。

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月初三連休中日。入浴前からオーディオから流しているのはクラシック音楽にシフトしているのだけれども、その後、入浴、食事と経ても全く眠気がやって来ない。現在0時53分。三連休もよくよく考えると最終日に突入している。

寝落ちにも期待したけれども、どうやらその気配もない。まぁ、こんな夜にはとことん音楽につきあってあげるしかないのだろうな。

夜になってから聴いているクラシック音楽は下記の通り。聴いた順番で。

・シューベルト:交響曲第7番 / パーヴォ・ヤルヴィ, ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
・ラフマニノフ:交響曲第2番 / スヴェトラーノフ, ロシア国立交響楽団
・チャイコフスキー:交響曲第5番 / ヴァーシリー・ペトレンコ, ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 / ユジャ・ワン, ドゥダメル, ロサンゼルス・フィルハーモニック
・リスト:ピアノ協奏曲第1番 / アルゲリッチ, アバド, ロンドン交響楽団
・ブルックナー:交響曲第6番 / マリス・ヤンソンス, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

今、そのブルックナーの最中。その段階で相当に眠りを期待したのだけれども、こんなことをしているほどなので、眠気にはほど遠く。

いや、実のところは眠気に弱気だったので、Google先生に「ブルックナーで一番短い作品は何?」と尋ねた上で第6番をチョイスしたという次第で。一番短くても50分台とは、さすがはブルックナー先生。長さで語ればブルックナーかマーラーか、なのだろうなぁ。

今晩のチョイスは自分にとっては比較的カウンター的なものだと思うのだけれども、果たしてどうだろうか。王道ではないよな、うむ。

やばい、ブルックナーが終わってしまう…終わってしまった。何だかんだで聴き入ってしまう。今晩はやけにクラシック音楽耐性が強い。普段ならば3曲も聴けば飽きるか寝るのだが。それにしてもあまりにも極端ではないか。

眠さを本気で求めるならばヴァイオリン協奏曲なのだろうか。カウンター的なヴァイオリン協奏曲でも聴いてみるか。

・バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番 / ファウスト, ハーディング, スウェーデン放送交響楽団

さてはて、どうしたものかね、これ。現在1:41。

ブルックナー先生も呆れているに違いない

…でもって、

・マーラー:交響曲第1番 / ジンマン, チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

あの後マーラーに行ったのかよ?と言うツッコミは甘んじて受け止める。

でもね。眠くなってきたかもしれない。第3楽章でうっすらと眠気がやって来たのだが、第4楽章の冒頭で一気に目が覚めた。でもやはり眠気がじわりと押し寄せてきたような気はしている。

もう2:36だもの、さすがに眠れるでしょう。横になります。グッド・ラック、自分。

深海 / なとり (2026 48/24 Qobuz)

次々世代J-POP音楽クリエイターの前に大きく立ちはだかる次世代クリエイターの壁。

2010年代からその力を見せつけてきた次世代音楽クリエイターの現代での躍進は改めて表現するまでもなく、凄まじいと言う言い方をしてもよいほどのものがある。

J-POPを爆発的に世界に広めた貢献者として、ざっと思い浮かぶだけでも、米津玄師、藤井風、YOASOBIらの存在がある。いずれも2010年代にそのポジションを確固たるものとして、2020年代の今でも最新型世界的J-POPを展開し続けている。

このJ-POP新世代のクリエイターを次世代とするのならば、それ以降、彼らの洗礼を浴びたであろう世代は次々世代と称してもよい。

なとりは面白い。次世代の前に存在していたボーカロイド世代の孫世代であることを、自身が表現している音楽でまったく包み隠すことなく提供している。それどころかアルバムに並べられている楽曲から薫ってくる音楽の空気感が次世代のそれそのものでもある。

次世代のクリエイターたちがアイデンティティともいうべきポップネスをオリジナリティを持って構築して来たのに対し、次々世代はそのエッセンスを早くに血肉として消化し再構築させている。

先に次世代のクリエイターとして3アーティストの名を上げたのは、実は意図的である。なとりがクリエイトするポップスには、彼らが持っているエッセンスが多分に含まれている。その端々、いや、むしろど真ん中に次世代の匂いを据え置いている。

だからなのだろうか、なとり自身が次世代の子ども世代であることに自信を持ち、胸を張って制作活動に打ち込んでいるかのようにも感じられる。次世代の姿が丸見えでありながらも、実に「聴ける」のだ。

これを次世代クリエイションの縮小再生産と片付けるのはあまりにも安易に過ぎる。次々世代はその中から自らのアイデンティティをどのように表現するかに苦心しているのではないだろうか。確固としてそこにある牙城を切り崩すのと同時に、換骨奪胎とオリジナリティを両立させるクリエイティヴィティ。

その純度が高ければ高いほどに、作品として現れた形は独自のポップスとしてのシェイプを保つ。なとりが提示する作品の面白いところはその点にある。

ここにあの人のスタイル、そこにこの人のスタイル、と単に数え上げるのは誰にでもできる簡単な作業。さらにそこから突っ込んで耳を傾け、この次々世代のクリエイターが何を表現したいのか、そのオリジナリティとアイデンティティが存在する音に着目することで、より一層今のJ-POPへの理解が深まるように感じられる。

この2ndアルバムをもって、なとりはその身にまとった次世代クリエイターのTシャツから大きくその腕、自分自身の腕を伸ばし始めたようだ。

深海 (完全生産限定盤) - なとり (特典なし)

このところちょっと(20260203)

0.
月初三連休初日です。胃腸炎の際に処方された薬は飲みきりました。

1.
昨晩からポタオデに力を入れております。NW-ZX300と有線ピヤホンの組み合わせであれこれ色々とトライして、なかなかいい具合に仕上がってきた感ありで。

有線ピヤホン5は上流のDAPがどのようなものであれ、本当にこのイヤホンの音が鳴るほどにキャラクタがはっきりしている。全てに満足。ところが有線ピヤホン3とNW-ZX300との組み合わせにおいては、なかなか苦戦しておりまして。

ところがこの状態でNW-ZX300に接続して音楽を聴くと、出音がやけになまくらに感じられてしまっていたのです。音自体が死に体になってしまうかのほど。音楽が楽しく鳴ってくれない。

これがFIIO M21に接続すると、しっかりと元気な音を届けてくれるのです。なるほど有線ピヤホン3は上流に支配されがちな音なのかと、ここにきてようやく合点するほどに。

それでもNW-ZX300の出音を有線ピヤホン3でも楽しみたいのですよ。これが人間の業の深さと言うものであって。闇とも沼とも言うけれどもね。

なお、有線ピヤホン3は純正バランスケーブル「龍柱」との組み合わせを前提にしております。

さてはてどうしたものかと昨晩あれこれ考えていたのですが、ふと思い出した存在がありまして。それがNICEHCK龍鱗Dragon Scare初代。力モリモリ解像度抜群お化けリケーブルですよ。そのクセの強さから死蔵品になりかけていたのです。

こいつを有線ピヤホン3と合体させて使えばあるいは…。

そう思い至れば実践あるのみ。この化け物を有線ピヤホン3に接続。NW-ZX300のバランス端子に差し込んで、音楽スタート。

はい、正解。

自分にとっての正解を導き出しました。マッチョで粒の立った音。これは実に楽しい出音であります。

オールドファッションなDAP、NW-ZX300を使う理由が音楽を楽しむためである以上、出音が面白くないのは正義ではないのです。

現時点での最適解

2.
SACDディスクが順調に増殖しております。聴いてから次を買おうと考えてはいるものの、出物があるとついつい買ってしまうこの悪いクセ。よくないですね(いや、よい)。

3.
人間いくら頑張っても耳は二つしかない。頭も一つしかない。

4.
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの30周年リマスタハイレゾ音源リリース企画は、先日のベスト盤発売で取りあえずの完結を見ましたかね。もちろん最後までしっかりと購入させていただきました。

チバユウスケの声はどうしてこうも悪いロックを呼ぶのだろうか。悪い、というのは、典型的な不良の、男のロックとでも言えばよいだろうか。ザラッとした質感を有した、ロックの中のロック。ヒリヒリするスリルを感じさせるとも言えるか。

長きにわたってリリースされてきたこのシリーズを通して見ると、自分は実は後期のミッシェルさんの方が好きなのだということに気がついたのです。もちろんデビュー曲「世界の終わり」は別格ですよ?それでも、どんどん雑味が削ぎ落とされ、悪いロックの代表格のような存在になっていく様が見事であったなと。チバユウスケ像がブレなくなっていくのだよね。

リアルタイムでは一時身を引いていたのではありますが、その後再び戻って来てよかったと安堵するわけであります。このバンドが持つ独特のグラヴィティに抗うことなどはできなかったのですよ。

5.
TRFって格好いいよね(唐突に)。

小室哲哉が自分のイニシャルを冠して展開していたユニットであるわけだから力が入っていて当然なのだけれども、今聴いてみると音作りもずいぶんと凝っていたなと思うわけでありますよ。

それまでのTM NETWORKの香りを最小限にまで薄めながらもやはりどこかにふとそれが漂う瞬間があるのですよね。これがglobeになると相当独立した存在と音になるので。そう考えてみると実はTRFは小室哲哉にとっては過渡期だったのかしらね。

と、そのようなどうでもよいことを、TRFを聴きながら書いているわけであります。もちろんNW-ZX300で聴いておりますよ。

6.
そんなこんなで。

シベリウス:交響曲全集 / パーヴォ・ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団 (2026 SA-CD)

シベリウスと向き合うことで、私はどんどんと自分の中へと入っていく。内なる自分の世界へと入り込んでいくとでも表現すればよいだろうか。自分なるものの深みへとはまっていく。

私の中にある人外の部分。いや、そこに人と用いている段階で、それは人なるものの中にある成分のようなものではあるのだが、普段ならばおよそお目にかかることもないだろう想像の世界であったり、どこか異質な思考の涯(はて)に身を置くことを赦されるような気にさせられる。

人なるものが作りし音である以上、人智を超越することはあり得ないのだが、少なくとも今この時点で自らが身を置いている世界からは逸脱したどこかへと身と思いを馳せることができる。

それは逃避ではなく、実のところはやはり超越であり、その音が紡ぐ数多の糸が私自身を絡め取り、思考の次元を異質なものへと導くための綴れ織りとして自らを載せて空(くう)を舞い、見知らぬ、見果てぬところへと連れ去ってくれるのかもしれない。

思考を拐かすかのような想像の中に放り込まれ、形にならないそれが渦を巻いて宙をさまよう。水も光も空気もこの地球上にあるものでありながらも、実のところはそれではないかのように潤し、煌めき、薫る。

そのような思考の中の異端にあると、当然の事であるかのように時間の概念までもが失われる。正確に刻まれているはずの時が明らかに歪む。短くもなり、長くもなり、時には再び始まりに着地させられる。

音が音以外のものとして作用しているのだ。凸にも凹にも歪み、心も空も時もかように掠われる。

音の終焉と共に我に返れども、自分の中の何かが、その終わったはずの音の向こうに取り残されてしまったかのようにしばし呆けてしまうのは、至極当然のことであるのかもしれない。欠片は奪われてしまうのだ。

音は音にしてあらず。私をさまよわせ、もてあそぶ。

今、ここに戻って来た私は果たしてあの時の私だろうか。今、私はどこにいたのだろうか。

気の触れた自問自答の末に、また次の音へと手を伸ばす。いつまでも終わらないでと希(こいねが)う甘い夢の下へと誘われるかのように。

シベリウス: 交響曲全集<2025年マスタリング><タワーレコード限定>/パーヴォ・ベルグルンド