音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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Love Collection 〜pink〜 / Love Collection 〜mint〜 / 西野カナ (2013 FLAC)

「ティーンネイジ・ラヴそして西野カナ」

恋愛に対する饒舌な情熱は伝わってくる。

それが西野カナの2枚のベストアルバム『Love Collection 〜pink〜』『Love Collection 〜mint〜』の歌詞カードを見た瞬間に受けたイメージだった。そこに綴られている文字の洪水でまず軽くジャブを喰らう。まさかこれほどまでに強い筆圧がそこにあるとは思ってもいなかったのだ。「ああ、これを読み解かなくてはならいのか」と軽い眩暈を覚える。

手始めに曲を聴いてみることにした。歌詞だけでは歌は伝わらない。楽曲との相乗効果があってこそ、西野カナはここまで大きくなってきたのだろうとの予想からだ。

果たして、その歌唱は技巧派とは遠くかけ離れたものではあるけれども、一つの大きなチャームがあることに曲が流れた瞬間に気付かされた。それは非常に滑舌の良いボーカリゼーションと通りの良い声。歌詞カードを見なくとも、歌詞の全てがダイレクトに耳に伝わってくる。これは、決して音質的に良いとは思えない環境下で聴かれることも多いだろう西野カナのコア層にとっては強力な武器だ。スマートフォンを1台中心に置いて曲を流すだけで、仲間同士で簡単に曲をシェアすることが出来るだろう。それは音楽を共有する上での最も原始的な方法であったはずだ。中学生、高校生が昼休みに、放課後に、部活の後に、誰かのスマートフォンから西野カナの曲を流して「この曲いいよね」と盛り上がる姿が目に浮かぶ。そして音楽は伝播する。

さて本題の歌詞の世界観に戻ろう。大人の恋愛はそこにはないとまずは断言できる。あくまでもティーンネイジ・ラヴの世界だ。事実「Believe」「私たち」という『mint』に収録されている頭2曲は「大人になったら」というキーワードが出てくる。主人公は中高生である「私たち」なのだ。個が確立する手前のあやうい世代。心が恋愛に傾けば、それが全てになってしまう世代。ターゲットはそこにある。そして西野カナは、そのターゲットを絞り込むことで現代の恋愛の教祖と言われるまでになった。

それと同時に、相手の存在を直接確かめたい、そこにいて欲しい、という強く歌い上げる歌詞は、実は西野カナが肉食の恋愛実業家であることを証明しているとも言える。淡い恋とも異なる、不器用な恋、拙い恋、握っていた手が繋がるか離れるかと言った程度の浅い恋を連綿と綴り歌い続ける恋愛実業家。それが西野カナの本質、才能だ。

予想通り、歌われている世界は狭い。「半径3mの恋愛劇」とも言われていたが、実際に描かれている恋愛劇は、お互いの体温を感じられるもっと狭い「隣り合った世界上」にある。それは直接触れ合うことは叶わなくとも、携帯電話をじっと見つめる、ぎゅっと握りしめることで、成立する、終わる、そして時に自分だけを見つめて欲しいと切なく歌われる恋愛なのだ。

西野カナが恋愛を描く上において、斬新な切り口はない。私、君、過去の恋人、それよりも大きな存在になりたい私、昔の彼女のことは忘れて、別れたあの人はどうしているか確かめたい、そして「私はあなたと繋がりたい」。

しかし繋がりたいと書く言葉の裏からは、深い熱情は伝わっては来ない。あくまでもティーンネイジ・ラヴ。一線を超える手前の恋愛。とにかく君がそこにいてくれるだけで私は幸せになれるのだという強い思い込みを描き続けることで、どこまでも西野カナは自らの恋愛観のループに聴き手を絡め取ることに成功している。

もちろんそこには成就される恋もある。しかしどうしても拭い去れない違和感がある。恋愛は男女間における直接的なものであるはずなのに、西野カナが描く恋愛はどこか間接的なのだ。吉田美和は恋愛臭というコロンをとにかく楽曲に織り交ぜることで、大人の恋を歌うことに成功した。aikoは相手との距離をゼロにすることで恋愛の熱を描き出すことに成功した。宇多田ヒカルは「世界は1対1の恋愛逃亡劇」で成立すると「First Love」で歌った。

西野カナは恋愛に必然的に漂う匂いを意図的に消臭しているようにも感じられてならない。先に携帯電話というツールを説明に使ったが、このツールを多用することで、相手との距離にワンクッション置いているようにも受け取れる。そしてそれこそが恋愛はあくまでもティーンのものである、という西野カナ独特の歌詞世界が成立していることの証明でもある。ティーンでも叶うかもしれない恋愛、もしかしたら失うかもしれない恋愛といったドラマに没入出来るマージンがそこにはある。

そしてこれがコア層に直接響く要素なのだろう、恋愛を浅く広く描いているある種のしつこさが、恋愛依存症、もしくは恋愛に憧れ、焦がれる層の心を直接わしづかみにする。事実「不器用」という単語は、西野カナのパブリックイメージとも言える「会いたい」という単語並みに頻出している。不器用な恋愛をどうにか発展させたいともがく姿、君に触れたいと焦がれる恋愛模様、それが結果として「会いたい」に収斂されているのだ。

西野カナの「会いたい」の先はあまりにも漠然としている。いや、それでいい。ティーンの恋は「会いたい」から始まる。会いたい、君を思っていたい。そして君と実際に触れ合った先にある恋愛模様は、手練れの恋愛シンガーへと引き継がれていく。恋愛という人生のワンシーンを人は誰もが通過していくように、聴き手は西野カナを通過していく。すなわち西野カナはティーンを恋愛の入口へと誘い、そして送り出していく夢先案内人なのである。

" title="L'EPILOGUE " class="asin">L'EPILOGUE / 氷室京介 (2016 FLAC)

西野カナのあの突然の長文は、昨夜のこと、メッセンジャーで酔っ払って「西野カナを論じる」という話の流れになってしまい、その勢いでCDをレンタルしてきたのです。で、一つ文章を書けという話になっていたので「これを一日中放置していたら、絶対に約束を反故にしてしまう」と思ったので、寝起きの頭からスタートして書き殴ったという次第なのであります。おかげさまで、午前中は軽い頭痛が止まりませんでしたとも。

で、今度は氷室京介。いや、これは論じる必要はなく、ひょんなことから聴くことになったのだけれども…いやぁ、僕がヒムロックを敬遠していた理由がなーんとなく分かったような気がする。聴いていて辛いんだもの。布袋寅泰は平気で聴ける僕だけれども、ヒムロックはどうも紋切り型に過ぎて、どれを聴いてもヒムロックという、ある種のアクの強さがあるのではないかという結論に至ったのだよね。そして楽曲のバリエーションの狭さ。比較的似たような曲が集まるか、もしくは、突出した何かがメロディの中に存在しない楽曲が多いと言う、ある種のヒムロックならではの特徴が見出せたのであります。

この人は…何というか長渕剛と同系列の臭いを感じてしまうのだよね。存在がもう神格化されていて、その中で楽曲を作っていくと言ったスタイルなのではないかと。その枠からはみ出すことが許されない、もしくははみ出せないというジレンマがあるのではないかとまで穿った見方をしてしまうくらい。

ヒムロックという存在は、どうしても布袋寅泰との対比で自分は見てしまうのだけれども、ボーカルだけで勝負をせざるを得なかったヒムロックと、ボーカルはともかくもギターという強い武器があり、世界に殴り込みをかけようと躍起になっている布袋寅泰とのギャップが大きく開いてしまったことも、逆にヒムロックをこぢんまりとしたものに見せてしまう結果になったのではないかと。

さらに個人的に語るのであれば、布袋寅泰のボーカルのアクの方が、実はヒムロックよりもよりロック魂のようなものを感じさせるのではないかと。ある種の暴力的な側面があり、そこが魅力的に映るのが布袋寅泰なのではないかとも思い始めた次第。

まぁ、取りあえずはいい勉強になりました。逆説的になぜ自分は布袋寅泰は聴けるのか?と言う理由が分かったので。

あ、このアルバム3枚組なのですが、Disc3はライブ盤なので勘弁してつかぁさい。ちょっとそこまで聴く勇気も気力も体力も今は、ない。

Dance / The Smith Quartet (2011/2016 ハイレゾ 48/24)

何気なくmoraのトップページを眺めていたら、このジャケットが目に入り、紹介文を読んでみると面白そうだったのでAppleMusicでサクッと試聴をした上で購入。

コンテンポラリー作家による「ダンス」を題材にした楽曲を、弦楽四重奏で演奏すると言う内容。もちろん知っている曲はそこに1曲もない。それでも、ボディを叩いてリズムを取る演奏や、もちろん複雑に4つの楽器が絡み合った楽曲まで、非常にバラエティ豊かな楽曲が揃っていて、聴いていてなかなかスリリング。

古典的なクラシックミュージックによる弦楽四重奏もいいけれども、こういった(比較的分かりやすい)現代音楽による弦楽四重奏も面白いものですな。