音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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音にすがる

高校時代からの友人と交わすメッセンジャー。こちら側に座っていた自分はすっかり酔いにやられ、詳細は忘れてしまった。ただ、彼の言葉は覚えている。だからここに書ける。

「佐野元春と浜田省吾を追いかけてみたい」

聞くと、両者とも代表曲しか聴いたことがないという。ハマショーに関してならば自分も似たようなものだ。

「くるりも聴いてみたい」

そうとも言った。音として、現象として、己の耳が与える素直な印象として、たとえ今はそれを理解できなくとも、いつともしれぬいつか何かのきっかけで耳に入り込んできた時、過去に耳がそれを経験していたか否かによって、自分に与えるだろう印象のギャップについて述べていたように思う。そしてそれはもちろん互いの経験則でもある。

言い換えるとこうだ。知らずにいることが悔しいのだ。悔しがることを恐れるから、追いかけようとしている。せめて追体験でもいいから、それを分析してみようとする。

先日、クラムボンのカバーアルバムを聴いた。タイトルだけは何度も見かけたことのある 「サマーヌード」 という曲が収録されていた。自ら睡眠に引きずり込ませるための薬を飲み、コンセントレーションも十分なベッドの上でそちらへと吸い込まれそうになっていた瞬間にやってきた緩いフレーズが、意識をこちらに引き戻した。

何度も見てきたはずの、そしてそれを見るたびにきっと同じようなノスタルジーとやらに襲われるのだろう、そんな普遍に過ぎる光景と感情を胸に圧し与えて曲が終わった。原曲を聴きたい。その渇望だけを残し、意識は次の朝に移動させられた。

ようやくオリジナルを聴く機会に恵まれた。それを知らずにいた自分が、素直に悔しがっていた。だからこそ、そうとは明言しなかった友人の思いを 「悔しい」 という言葉で勝手に代弁したのだ。とにかく、正直に、悔しい。せめて通りすがってさえいれば、耳をすり抜けていただけでも 「その時に引っかからなかっただけだ」 という言い訳が成立する。

なんてあさましくくだらないプライドなんだろう。それほどまでに僕らは音楽というものを置き去りにできず、それにしがみつき続けたい、すがり続けたいと思っている。何度でも願う最後の願い、出し続ける最後の切り札にはこう書かれている。書き続けている。

「せめて音楽だけは」

自分を取り巻く現実には 100% すがれる確実な物体がない、事象がない、人がいない。自分の心ですら自分でコントロールすることを放棄してしまっている。それならばせめて、数分間の繰り返しを数時間にも数日にも数年にも変えてくれる確実な音を貪欲に取り込みたいと願うことは、決して後ろ指さされる欲ではないだろう。

そんなちっぽけなものにしかすがりようがなく、そんなちっぽけな欲で満たさせる一つの、そして大きな器が自分の中にある。その中に湧く水を枯らさぬよう、みみっちい努力を笑うなら笑ってもいい。 No music, no life. そんな軽口をたたいている余裕すらなく、音に手綱を取ってもらうべく、鞍の乗り手を僕らはいつまでもいつまでも捜し続けている。