ブルックナーに接すると宇宙と交信をしているような気分になることがある。音の運びが悠然としていることが、そう思わせる理由なのかもしれない。テーマが、やら、モチーフが、やら、で語ることが自分にとってはふさわしくなく、ただそこに見えている音の姿を捉えた際に感じ取られるものが、宇宙という語に集約されているような気がするのだ。
宇宙に風が吹くはずもないが、その大気の流れが感じられるのもまた、ブルックナーの特に後期作品の特徴であるように思える。空気に質量はないが、風となると肌に感じ取られる動きと重さが発生する。実にそのようなものではないかと。そこにある音が空気の流れを演出しているかのごとく。
音を歌い上げるのとは異なり、音を紡ぎ上げる作業を求められるのがブルックナーを演奏するということなのではないかと思うことがある。構築、コンストラクション、そのような行動にも似た何かがそこにはあるように感じられてならない。もちろん奏者ではないゆえに、それは勝手な解釈であるのは承知の上。
長大なブルックナーの世界を紡ぎ、描き、演奏へと導く。指揮者にはその芸術的行動を束ねる責任が重くのしかかるように思われる。
本演奏では譜面に記された音を立像として描くのはもちろんのこと、装飾を比較的控えめに演奏されているような印象を受ける。パーヴォ・ヤルヴィが持つ独特の凹凸を持った演奏観が姿を潜め、柔らかく譜面を撫でているかのように時間が進んで行く。
芳醇であるばかりがワインではない。そこには澄む味があってもよい。味を定める味覚が全てにおいては共有できないように、音から紡ぎ上げる色彩は各々の感覚によるもの。その最後の鍵を指揮者は聴き手に委ねているのではなかろうか。ブルックナーが記した世界観の多くは、聴衆の想像力における再構築に任されていると結論づけるかのように。