音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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ORANGE / 電気グルーヴ (1996)

その昔から芸人が割と苦手だ。芸人を好きになったことは過去に一度もない。理由は基本的にインテリジェンスを感じることが稀だからと言うもの。有り体に言えば表情が貧相で下品だから。もちろん例外が存在することも認める。

電気グルーヴの音楽には間違いなく下品さが存在する。救いようもないギャグを基調にした歌詞と、ふざけた態度を取リ続けるその存在がビジュアルと相まって、実のところ少々苦手と言えば苦手だ。彼らが好きだと諸手を挙げて公言するのは、自分にははばかられる。

それでもトラックのマッシヴな情報量を持った格好よさ、時折泣かせにかかるメロディ、切なさを感じさせる、その存在としては裏切りとも言える歌詞など、随所にインテリジェンスを感じることは否定できない。二律背反であることは承知の上で、彼らが作り出す音楽の魅力からは逃れられないでいる。

ミニマルに構成されたトラックと、そこに乗せられるどうしようもない内容の歌詞。だが最近になって気がついた。その歌詞もまたトラック同様ミニマルであると。一つのモチーフを反復しながら、歌詞が持つ世界観を徐々に広げていく。まさにミニマル。そこに微妙な人生の哀愁といった側面を持つエッセンスをふりかけるあたりに、確信犯としての存在を持たせ続けている理由がある。

電気グルーヴが持つ芸人的要素は、実のところは大上段かつ下品に笑いを取りにかかるそれではなく、そう振る舞うことで謙譲にリスナーの立場を持ち上げる、人としての鋭さを有したそれだったのかもしれない。絶妙な匙加減でリスナーの心をくすぐり、それがトラックと結びつくことで反復性の毒を持つ音楽となる。

芸人を一括りにして、下品な表情を浮かべて相手を貶めるかのような笑いを取るだけの存在とするのはあまりにも暴力的な論だ。例外となる芸人はその人物の根底に鋭さや突出した才覚を持っている。笑いのインテリジェンスとは、かくも罪作りに意見の持ちようを惑わせる。

電気グルーヴの音楽、そして存在は持論のブレを呼び起こす。一点にのみ視点が固定されてしまう輩にとっては、実は厄介に難易度の高い存在なのだ。

ORANGE - 電気グルーヴ

このところちょっと(20260106)

1.
ふてくされております。またしても米津玄師で何も書けなかったので。

2.
でも本当に米津玄師からは目が離せないのです。次に何を投じてくるのか、もう何年もその動向に期待が持てる、最早期待しかないので。

3.
ふと思ったのですが、フィジカルな録音メディアで音楽を聴いてきた人間の一人が私なのですが、データとしての音楽を大量に詰め込んでいるmicroSDカードをスマホやDAPに差し込んで音楽を選択して聴いている行為は、実はまだギリギリフィジカルなのではないのか?と。

では、音楽におけるフィジカルとは何を指すのだろう。記録媒体としての器?

4.
三が日最終日に中島みゆきのフィルムコンサートを観てきました。今年は年始から連続3本立てなのですが、その1本目を。しかし圧巻。歌唱も演奏も最小限の演出までも、素晴らしくよろしかったのであります。

思えばこの方もフォークの流れから、マッチョイズムに至る歌詞の連投劇まで、本当に時代と共に変貌を遂げてきた存在であるなと改めて。

自分がこの方を認識したのは小学生、「悪女」がヒットしていた頃のことだと思うのだけれども、あの時代から今の中島みゆきの存在感を想像出来たかと問われると、激しく疑問なわけで。どのタイミングで今の彼女に切り替わっていたのだろうか。

などなど考えながら観ていたのですが、「時代」を歌っている姿を観ていると、この方はこの曲からしてもう既にこういった存在だったのだと思うに至る、思い知らされた次第なのであります。

5.
ああ、そうだ。中島みゆきのフィルムではもう泣かないだろうな、などと油断していたら「ファイト!」でいともたやすく泣かされてしまった。あの曲はやはり反則技だよ。

6.
そんなこんなで。

7.
そうだ。

中島みゆきが工藤静香に提供した曲の中では「雪・月・花」が一番好きなのよね。

STRAY SHEEP / 米津玄師 (2020 48/24)

米津玄師の何かを切り取って語ろうとしても、必ず初っ端で挫けてしまう。今日は「文学性」で切り取ろうと企て、その序文を書き始めたところで対象のあまりにも大きな存在感と情報量に、自分の力では深掘りは不可能だと判断。そこで諦めてしまった。

書きたかったことは、米津ポップスと文学の親和性、歌詞の端々から漂う児童文学から純文学、暴力性が漂う現代文学に至るまでのインプットとアウトプットの透明度の高い結晶としてのポップス、文学が描き起こす人間の表裏を常に漂わせる楽曲群などなど、本当にキリがない。

そして膨大な量の引用が必要になってくるだろうことも、今回の深掘りを諦めた理由の一端。深掘りの内容にリアリティを持たせようとするならば、絶対に引用が必要だから。

この人についていけばついていくほどに、深みにはまっていく理由にまで手を伸ばしたかったのだが、やはりそれは不可能なのだな。自分のような聴き散らすだけの人間では、アウトプットの底が知れない人間の分析をしようなど愚の骨頂だった。

と、まぁ、そのような野望から挫折までの一通りを感じながら、このアルバムを聴いていたのであります。自分にとって米津玄師とは、実に罪作りな男なのであります。

STRAY SHEEP - 米津玄師 (通常盤)

Very / PET SHOP BOYS (1993 44.1/16)

1993年作品。PET SHOP BOYS(以下PSB)による5枚目のオリジナルアルバム。

本作がリリースされてから既に33年も経過した。このめくるめく不朽のポップアルバムが、自分の中でその期間、一点の曇りを持つこともなく輝き続けているように感じられるのは、やはり曇りが全く存在しない突き抜けた明るさが徹頭徹尾貫かれているからだろう。

PSBのポップさにはウェットさが常に同居する。それは翳りと言った類いのものとは異なり、どこか諦念にも似た、ある種の哲学が持つ「ポップの概念」を考え抜くクレバーさから来ているのかもしれない。

ただただ明るいだけの人間が存在しないのと同様、彼ら・彼女らが必ず有するだろう二面性のフリップサイドを全肯定した上でたどり着いた感情の頂点にあるものが、酸いも甘いもかみ分けた人間としての明るさであるならば、PSBの本作に横たわるこの強烈な陽射しとその足元に宿る影は、それらを表現として落とし込んだ先の音楽なのだと考える。

12篇の楽曲からなる本作が収斂される先はファイナルトラックである「Go West」であることは自明の理だが、この位置にVillage Peopleの代表作であるカヴァーを置いたことは、PSBの(想像でしかないがゲイカルチャーに対する、この当時としての)強い意思表示をアルバム全体として有していると訴えていることと、人間としての既成概念であるボーダーを取り払う力がポップミュージックには存在しているのだといったメッセージを濃厚に詰めこんだ結果なのではないかとも、今となっては思えてくるのだ。

ポップミュージックとは軟弱な音楽では決してなく、ありとあらゆる音楽のジャンルを飲み込む巨大な器であり、また、国籍、人種、ジェンダーなどといった巨大な壁を乗り越え取り払う圧倒的なエネルギーを有していることを改めて実感させられるのが、本作が持つ存在感の理由なのだと言える。

VERY: FURTHER LISTENING 1992–1994

このところちょっと(20260101)

0.
あけましておめでとうございます。

一年の計は元旦にあり。2026年、今年は昨年比でブログの更新頻度を上げようと考えております。

思えば昨年は音楽活動の記録をしていなかったことが大量にあり、「自分が後から過去を振り返るためのブログ」としての役割を全く果たしていなかったことを反省しておりますがゆえ。

それ以外には、月2回、隔週でくらいには泳ぎに行きたいな…などと考えております。昨年は運動量が激減していたので。

1.
昨日の紅白歌合戦は稲葉浩志の色香にノックアウト喰らってました。共演の福山雅治などは目ではない。稲葉さん、歳を重ねる毎にどんどんますます色気を増しているように思えるのですが。あなたは化け物ですか?

これで一昨年に引き続き、またファンが増えてしまうな。間違いなく。

2.
紅白歌合戦の前には、デラックス×デラックスの最新ライヴDVDを鑑賞しておりました。箱が小さい小さい。物理的なそれだけではなく、パフォーマンスがもうこんな小さな箱では収まらないほどのダイナミックさと情報量の多さを持っている。

生観戦でも実感していたことではあるけれども、地元沖縄でのライヴパフォーマンスを収録媒体で鑑賞しても、その念に変わりはなかった。あとはバズり系のヒット曲とテレビ出演の機会さえ手に入れれば、スルスルッと大ブレイクすると信じています。

v-again.stores.jp

3.
その後にT-SQUAREの新メンバー加入直後ライヴBlu-rayを観ていたのですが、途中ですっと寝落ちしておりました。4曲ほど寝てしまっていたのでその時点で再生を止めて、また後日、再度頭から観ることにしました。

それでも多くのインプレッションを抱くに至った内容でしたよ。

4.
今年の音楽事始めはラルス・フォークトによる、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番でした。

華やかに、かつ、すがすがしく。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番&第5番

5.
音楽事始め2番目はT-SQUARE『TURN THE PAGE!』をSACDで。昨年聴いた音楽作品の中でも、相当な再生回数を稼いでいましたね。それなのにインプレッションをほとんど記していなかった。

音が突然若返ったと同時に、非常にT-SQUAREっぽい作品です。相当な化学変化が発生していますよ。第一に、演奏にスピード感が復活した。スクエア、まだまだ行けるじゃん!とね。

このメンバーでしばらくは固定して、このように爽やかで心と耳にすっと入ってくる、J-FUSIONの代表格らしい作品を連発してほしいの心です。

TURN THE PAGE! (通常盤) (CD) (特典なし)

6.
あ。

あと、昨日の紅白、米津玄師のパフォーマンスもやたらイカしてましたね。ダークサイドの米津玄師をこれでもかこれでもかと見せつけられた感あり。最高でした。

石川さゆりのN響との共演にも引き込まれました。石川さゆりの、どう演奏しても名曲な「天城越え」に対し、N響がガチで演奏を挑みにかかっていたあたりに、プロフェッショナル同士の火花の散らしあいがうかがえて、一人で興奮していました。

そして同じく印象に残ったのは数々の「いい曲」。10年前の自分ならば、ふーん、と素っ気ない感想を持つだけだっただろう楽曲に対し、テロップの歌詞を見ながら一々心に染みておりました。

名曲に対するハードルが、歳を重ねるとともに下がってきているのかもしれません。心のキャパが拡がっているのかしら。

そのような心の状態だったので、終始番組を楽しむことが出来ました。歳を取れば取るほど、紅白歌合戦の番組後半が楽しめるようになってくるのですな。

7.
本日夜からは、元旦恒例の中学時代の友人とのサシ呑み&歌い始めをしてきます。デラックス×デラックスの曲を沢山歌おう。

ところで、曲はちゃんとカラオケに入ってますよね?それだけが心配。

8.
そんなこんなで。

桜の木の下 / aiko (2000/2005 SA-CD)

aikoは裏切らない。

aikoをSACDで?と思われる節もあるかもしれませんが、このディスクはマジでヤバいんですわ。こんなにSACD向きの音源だったの?と驚くことうけあい。本作はCDでも96/24のPCMハイレゾでも聴いてきているのだけれども、決定盤はSACDであると断言出来ます。

とにかくリッチ。この時代のJ-POPらしい音圧がありながらも、飽和直前のリッチさと、何よりもaikoのボーカルの艶めかしさまでしっかりとキャプチャしている。ハイエナジーなSACDと表現したらアンビバレンツかしら。

音場をフルに利用して、かつ音があふれかえっている感覚はPCMハイレゾでも味わえないんですよ。SACDにした途端、全てのリミッタが取り払われたかのように思えるこの聴感。上品なだけがSACDではないのだと訴えかけているかのよう。

ボーカルの艶めかしさと記しましたが、aikoのボーカルにエロスが漂うんです。これ本当に。良質なオーディオを表現する際に、ボーカルが目の前で歌っているかのようと評することがありますが、このディスクでは3Dでaikoが飛び出しているかのような音像を結ぶのです。そのような聴感なのですから、エロスというのも想像頂けるかと。

2000年前後のJ-POPのSACDは手元に他にも何枚かあるのですが、それらに対しては比較的不満が残っているのです。それによって、24bitでレコーディングされたJ-POPはSACDに向かないのでは?と思っていた時期もあるのですが、本ディスクを再生すると、それは根拠のない仮説であるといわざるを得ないのです。

録音のクオリティや方向性と言ったものが、SACDに至るまでに全てが好条件で繋がった結果がこのSACDなのだと考えるのが健全なのでしょう。とは言えメインストリームなJ-POPですから、クラシック音楽のSACDと音質比較をすることは時間の無駄でしかありませんが、括りをこちら側にシフトさせると、やはりこのディスクは稀有な存在ではないかと思えるのです。

個人的にaikoのキャリアにおけるベストアクトは本作品だと思っているので、それがSACD化によってここまでのオーディオ的な表現をもって再生されることには諸手を挙げて歓喜するしかないのですよ。

SACD再生機器をお持ちで、本ディスク未所有の方には是非とも一回は試していただきたいディスクですね。Amazonのマケプレでもフリマサイトでも安く売り叩かれていますし。

桜の木の下(SACDハイブリット盤)

NON-STOPPER / 荻野目洋子 (1986/2022 SA-CD)

繰り返しますね。

この手の音楽にSACD化の意味があるのか?と問われたならば、あるよ!全然ありだよ!と答えますね。

と言うことです(前アーティクルからの流れです)。

荻野目洋子のこのディスクはESOTERICのSACDプレーヤーを使っていた時期に手元に置いてありました。当該機器を処分すると同時にディスクも手放してしまっていたのですが、marantz導入と同時に買い戻していました。

改めて聴き直すと、いやはや、こんな80年代J-POPの音源であっても、SACD化の意味はあるんですわ。先に聴いていたSRVのアルバムでもそうですが、音が天井に当たる感覚が消え失せて、どこまでも伸びてくれそうな聴感が心地よいのです。

同時に音同士の間隔が広がるので、音場も広がりを持ちます。それによってマルチトラックに埋め込まれた音の一つ一つにスポットを当てることに繋がっているのだろうと。

録音が案外とリッチであったことにも気付かされます。オリジナルのこのアルバムは当時のCD記録の技術的限界もあってか、比較的薄い音になっているのですが、本SACDでは芯のはっきりした「太い」音に生まれ変わっています。

もちろんリマスタも施されているのでその味付けされた音も出音には組み込まれているのですが、音の粒が有する迫力の表現力はSACDならではだろうと。

とにかくですね、聴いていて楽しいのですわ。小学生の頃から愛聴していたアルバムが、このような出音で愉快な音になって再び現れてくれたことが楽しい。

音楽の再生、オーディオとは、そういうことなんですよ。自分の好きな音源が、自分好みの音で再生されるからこそ楽しいのです。

荻野目洋子

Texas Flood / Stevie Ray Vaughan and Double Trouble (1983/2010 SA-CD)

昼間からずっとクラシック音楽に浸かっていたら、夜が来ると同時になんだかどっぷり疲れてしまった。ということで、景気よくこれを。スティーヴィー・レイ・ボーンのブルーズロック。

このギターとバンドのドライブ感がたまらないよね。弾いて弾いて弾き倒すギターはいつ聴いても気分が上がる。ある意味において、ロックの原点のようなスピリットを感じさせる。闘魂注入的な何か。

そしてさり気なくいつの間にかMobile FidelityのSACDを持っていました。DSD64音源も持っていたのですが、SACDはそれよりも格段に鮮烈でゴキゲンな出音です。

Mobile FidelityによるSACD化によって楽器の動きがより明確になって聞こえてくるので、演奏の飛ばしっぷりが当社比数倍で楽しめる。この手の音楽にSACD化の意味があるのか?と問われたならば、あるよ!全然ありだよ!と答えますね。

思うに、端正な方向の出音だけがSACDメディア、機器の十八番なのではなく、オリジナルに記録されているだろう音をダイレクトに、そして余力を持って伝えることにもその実力、威力を発揮するのだろうと。

この余力という部分は非常に大切な要素で、出音に天井が現れない感覚がリスニングの上ではストレスフリーにも繋がってくれるのではないかと。それこそがSACDにこだわる意味の本意でもあって。

SACDを語るのは取りあえずおいておくとして、SRVのおかげで晦日の夜が元気になってきましたよ。ロックンロールは活力の音楽ですわ。

TEXAS FLOOD

シューベルト:交響曲第7番&第8番 / 久石譲, フューチャー・オーケストラ・クラシックス (2025 SA-CD)

ほぼ同時期にリリースされた2枚のSACDディスクが手元にやって来た。いずれもシューベルトの交響曲。一つはパーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの第7番&第4番、もう一つは久石譲指揮、フューチャー・オーケストラ・クラシックスの第7番&第8番。まずは後者を通して聴いた。

結論、心躍るシューベルト!身体も踊ってしまった。主旋律の見通しが非常によいことと、スコアの流れをぐいぐいと音に変換して推進していく様が、実に自分好みだった。

過去に自分が通ってきたシューベルトにはさほどのバリエーションがなく、狭い範囲での印象のみが残っていた、いや、もしかするとそれは大して残ってもいなかったのかもしれない。ところがこの演奏を聴いた瞬間、シューベルトの交響曲とはこのようなものであったかと、今の今になって強く印象づけられ、その歌心が明確な形として自分の耳に次々と刻まれていくのを実感した。

思うに久石譲が持っている演奏のビジョンには確固とした芯が通っていて、それを余すことなくオーケストラが汲み取って演奏に結びつけているのだろうと。迷いやネガティヴな意味での揺れが感じられないのだ。このようにスコアが歌っているのだから、このように演奏するまでよ、と気っぷの良さまで漂ってくるかのよう。

それは同時に、むせかえるような芳醇さにあふれた演奏とは相当な距離があることを意味している。しかしその手の演奏は既に巷にあふれかえっていて、その焼き直しをすることに一分の意味も感じていない、それを踏襲する必要はないのだと断言して演奏に臨んでいる様までうかがえる。

これをいわゆるHIPの演奏スタイルと括るのも簡単なことではあるが、演奏の伝統をばっさと斬り落とすほどの威勢の良さで突き進む演奏は、筋肉質やスポーティといった類いのインプレッションで丸めることとも何かが異なるような気がする。

音に熱量を乗せるのはもちろんのこと、そこにある種の客観性を持たせ、アンサンブル的な連携の良さを保ちながらの演奏に専念しているのではないだろうか。それによってシューベルトの作品が持っている音楽の本質が浮き彫りにされ、作品としての輪郭が詳らかにされているかのように感じられる。

だからこそ聴き手である自分にとっては演奏に対する雑念が湧き起こることもなく、耳がひたすらに音を追い続ける、そこに集中することが可能にさせられていた。今そこで何が奏でられているのか、何が歌われているのか、シューベルトとはどのようなものであるか、と次から次へと回答を提示されているように思いながら愉しんだ次第。

痛快で愉快。クラシック音楽の歌心はシューベルトの中にここまで織り込まれていたのかと、新しくそしてクリアな感想を抱きながら聴くことができた。この組み合わせでのシューベルト作品の次なるリリースが今から待ち遠しい。

シューベルト:交響曲 第7番「未完成」&第8番「ザ・グレイト」

このところちょっと(20251229)

0.
昨日から冬休みに入りました。今季は雑に予定が入ってしまったため、八ヶ岳山荘行きはなし。その代わり、先日の休みに常陸大子から那珂湊方面へと茨城ドライブ&温泉旅行に行っておりました。我ながら渋いロケーションのチョイス。

1.
一日に複数のアーティクルを書く時は、基本的に暇を持て余しているのです。今日も年末の些事を早々に片付けては、音楽に没頭しております。気分的にクラシック音楽三昧にしたかったので、前アーティクルに記したようにチャイコフスキーの1番、2番を堪能した後に、スヴェトラーノフの指揮でラフマニノフを聴いております。ロシアな気分。

2.
今年はとにかくライヴ三昧だったので、来年はそのペースを大きく落とそうと目論んでおります。観たかったアーティストに関しては、まず一通り観られた感もありますゆえ。

などと書いておきながら、舌の根も乾かぬうちに来年の5月にクラシック音楽のコンサートを1本押さえてしまっております。パーヴォ・ヤルヴィがトーンハレ管と来日するというので、いてもたってもいられなくなりまして。

まぁ、現時点でその5月までは何もライヴを入れていないので、多分ペースは落ちてくれるとは思いますがね。

3.
観ていないライヴBlu-rayや録画物が溜まってきてますね。この休みに5本は片付けたい。購入物はT-SQUAREの新メンバー加入ライヴやデラックス×デラックスの沖縄ライヴ、録画物はもう何を録ったのか覚えていないほどにありますよ。

どれもこれも観たいという意欲はあるのです。ただテレビ鑑賞体制に気分を持っていくそのモチベーションが今ひとつなだけで。

4.
先日モーツァルトに関するアーティクルを記した後に、本当に偶然に故吉田秀和氏のモーツァルト論に触れました。そこに書かれていた内容が自分のアーティクルでのインプレッションに近しいものがあり、えらく感動をしてしまった次第なのです。

過去に幾度となく吉田秀和氏の文章を読もうと奮戦したことはあるのですが、ことごとく挫折していたのです。あれから数年が経過し、自分も少しはクラシック音楽の何たるかが分かってきた気がしている今、氏の端正なクラシック音楽論は、ある種の文芸作品としても自分の中ですんなりと受け入れられるようになってきたのかもしれません。

5.
まぁ、のんびりと、そんなこんなで。