ほぼ同時期にリリースされた2枚のSACDディスクが手元にやって来た。いずれもシューベルトの交響曲。一つはパーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの第7番&第4番、もう一つは久石譲指揮、フューチャー・オーケストラ・クラシックスの第7番&第8番。まずは後者を通して聴いた。
結論、心躍るシューベルト!身体も踊ってしまった。主旋律の見通しが非常によいことと、スコアの流れをぐいぐいと音に変換して推進していく様が、実に自分好みだった。
過去に自分が通ってきたシューベルトにはさほどのバリエーションがなく、狭い範囲での印象のみが残っていた、いや、もしかするとそれは大して残ってもいなかったのかもしれない。ところがこの演奏を聴いた瞬間、シューベルトの交響曲とはこのようなものであったかと、今の今になって強く印象づけられ、その歌心が明確な形として自分の耳に次々と刻まれていくのを実感した。
思うに久石譲が持っている演奏のビジョンには確固とした芯が通っていて、それを余すことなくオーケストラが汲み取って演奏に結びつけているのだろうと。迷いやネガティヴな意味での揺れが感じられないのだ。このようにスコアが歌っているのだから、このように演奏するまでよ、と気っぷの良さまで漂ってくるかのよう。
それは同時に、むせかえるような芳醇さにあふれた演奏とは相当な距離があることを意味している。しかしその手の演奏は既に巷にあふれかえっていて、その焼き直しをすることに一分の意味も感じていない、それを踏襲する必要はないのだと断言して演奏に臨んでいる様までうかがえる。
これをいわゆるHIPの演奏スタイルと括るのも簡単なことではあるが、演奏の伝統をばっさと斬り落とすほどの威勢の良さで突き進む演奏は、筋肉質やスポーティといった類いのインプレッションで丸めることとも何かが異なるような気がする。
音に熱量を乗せるのはもちろんのこと、そこにある種の客観性を持たせ、アンサンブル的な連携の良さを保ちながらの演奏に専念しているのではないだろうか。それによってシューベルトの作品が持っている音楽の本質が浮き彫りにされ、作品としての輪郭が詳らかにされているかのように感じられる。
だからこそ聴き手である自分にとっては演奏に対する雑念が湧き起こることもなく、耳がひたすらに音を追い続ける、そこに集中することが可能にさせられていた。今そこで何が奏でられているのか、何が歌われているのか、シューベルトとはどのようなものであるか、と次から次へと回答を提示されているように思いながら愉しんだ次第。
痛快で愉快。クラシック音楽の歌心はシューベルトの中にここまで織り込まれていたのかと、新しくそしてクリアな感想を抱きながら聴くことができた。この組み合わせでのシューベルト作品の次なるリリースが今から待ち遠しい。
