音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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このところちょっと(20260930)

1.
ようやくCorneliusの最新作『Refractions』を聴きました。ここ数作の環境音楽にかなり近しい雰囲気になっていたところから一転して、随分とアグレッシヴな作風になっていることにまずは驚き、そして万歳しながら受け入れておりました。

Corneliusならではのサウンドスケープの面白味と、構造骨格のエッジが際立った音響で、聴いていて楽しいの極地。それでいながら井上陽水の問題作「夢寝見」をカバーして完全にCorneliusのものにしているあたりなど、非常に興味深く楽しむことが出来ました。

2回ほどCDリッピングのFLACで聴き、その後にQobuz経由のハイレゾで聴いたのですが、CD音質では中高域のエッジがギンギンに尖っていたものが、ハイレゾでは中低域のふくよかさが加わり、より肉感的な仕上がりに。

ここまで異なると、CDとハイレゾとでマスタリングを変えているのではないかと思うほど。エッジィなCD音質もギリギリと音が迫る感覚で楽しく、ハイレゾ音質はよりフィジカルに響いてくるあたりに面白味を感じるのです。

いや、今作、ちょっと、アレだ。久しぶりにハイレゾ音源を購入してみようかしらと思わせるほどの魅力にあふれているわ。

Refractions - Cornelius (特典なし)

2.
横山幸雄のショパン全集、先日リリースされたVol.1とVol.2を同時に購入しました。

自分が横山幸雄に期待するのはキラキラと輝きが飛び散るピアノの音なのですが、今作では良い方向にそれが完全に裏切られました。

例えば練習曲の12曲を切り取って見てみても、それぞれの曲により表情を大きく変えながら演奏している姿が手に取るように分かります。時にとことん甘美に、時に烈するかのように、そして時には非常に内省的にと、その姿が変わるのです。

本SACDを2枚聴いて感じるのは、ピアノに込められた感情の引き出しを多彩に引き出している横山幸雄の技巧と表情の豊かさですね。そして根底にあるのは思慮深さ。ショパンに対する、観察眼の鋭さと広さとも言えるかもしれません。

なにより聴いていて退屈しないのが素晴らしいですね。自分がショパンに対してまだまだ白紙の状態なのも幸いしてますが、次にどう来るか、このタメで次はどんな表情に変わるんだろう?とワクワクしながら聴いていました。

いやぁ、楽しいわ。

ショパンVol.1 練習曲集
ショパンVol.2 スケルツォ集、幻想曲、舟歌

3.
月初三連休(明日が月初なので)の中日は、まぁ、こんな感じで、ほぼほぼCorneliusと横山幸雄でありました。

4.
そんなこんなで。

このところちょっと(20260617)

1.
ライヴやらコンサートやら映画やら、外出的音楽三昧を送っております。とんでもない6月です。何から伝えればいいのか分からないまま時は流れておりますよ。

B'zのららアリーナについては先日のアーティクルで書いた通りですね。

とにかく情報量が多すぎて、自分の中の整理が全く追いつきません。そしてそれらに対するインプレッションが全く自分の中から消えていかないのです。それほどまでに濃厚な6月を過ごしております。

2.
2026/6/13、サントリーホールにてオスモ・ヴァンスカ&東京交響楽団のベートーヴェン交響曲第8番とラフマニノフ交響曲第2番を聴いてまいりました。

当日、コンサートの帰りにXにポストした内容に少し手を加えたものを、まずは以下に記します。

多幸感溢れるベートーヴェン8番で今日のラフマニノフ2番が素晴らしいものになることを確信した。 そして当該ラフマニノフは、愛の表現溢れる、胸が締め付けられ、そして愛の奔流とその上澄み(さすがヴァンスカ!)が終始流れていた演奏だった。 Great Experience!

言いたいことは本当にこの約140文字に尽きるのですが、以下、補足的に記しておきます。

まずはベートーヴェン交響曲第8番。第一楽章が終わった瞬間、客席からどよめきが起こりました。冒頭から演奏に飲み込まれていた私も、何か凄いことが目の前で起きていたのだと確信した瞬間でした。

切れ味の鋭さと、指揮が終始オケを絶妙にコントロールしている様とを、まざまざと見せつけられ続けていたのです。押し引きと高低のダイナミクスが広く、聴いている耳が完全に引き込まれていました。これを極上のベートーヴェンと言わずして何というか、とまで思えるほど。

そこに満ちあふれていたのは多幸感でした。聴いているこちらも、終始笑顔になっているのを感じていました。この演奏をベートーヴェンが聴いたならば、解釈が持つ自由の偉大さに小躍りしたのではないでしょうか。

今この瞬間、目の前で発生している演奏、それは現象と言ってもいいかもしれません、は、次の瞬間には消えてしまうのです。ここまで幸せに包まれているというのに、音楽と言う芸術は残酷なもので、もう二度とこれを手に入れることはできないのです。正に一期一会の芸術。音楽のはかなさと、それであるがゆえの尊さを痛感させられました。

ベートーヴェンの時点でこうだったのです。ラフマニノフに期待が持てたのも当然のことと言えるでしょう。

そしてラフマニノフ交響曲第2番。演奏が終わり、指揮者の力が抜けた瞬間、起こったのはブラボーの声ではなく、会場のあちこちから発生した歓声でした。次の瞬間には文字通りの拍手喝采の渦が、サントリーホール全体を満たしたのです。

ラフマニノフは濃厚に語ろうと思えばいくらでも濃厚に仕上げられるはずです。それをヴァンスカと東響は愛の上澄みとして描いていました。根底には愛の奔流がありました。徹頭徹尾、そこにあったのは場面の展開が明確な愛のドラマでした。愛には喜びがあり、悲しみがあり、胸が締めつけられる場面もあり、そして爆発さえもするのです。この日の演奏には、その全てが、上澄みのように透明に描かれていたのです。

澄んだ演奏を作り上げることに関しては、ヴァンスカはお手のものです。それに応えたオケもまた素晴らしい愛を構築してくれたからこそ、この日の、ラフマニノフからの愛のメッセージが完成したともいえるでしょう。

その晩、私はイヤホンをせず、いや、耳に収めることができずに、無音のままで帰り着きました。都心を移動する際には、絶対に耳を音楽で塞がないと移動できないこの私がです。

それほどまでに惜しかったのです。自分の中に満ちあふれた音は、身体の中に乗り移りどこまでも鳴り続きました。その多幸感と愛のドラマ、それらが一片の形も手元に残らないことが悔しかったのです。あの演奏と自分のこの感動と興奮は二度と得られない、戻らないと、ここでもまた胸が締めつけられていました。

砂の楼閣、でも確かにそこにあったのです。これを書き記している最中にも、あの日の自分の心の動きが蘇ります。音楽という芸術はそれだからこそ、個々の感じたことが全てなのでしょう。

カーテンコール

3.
映画『Michael』も昨日観てきました。が、オスモ・ヴァンスカの夜について書いた現時点、力尽きました。なので、映画のインプレッションは後日に。

一言だけ。

少しでもマイケル・ジャクソンの音楽に触れ、そして何かしらを感じたことがある方なら、本作はマストです。マイケルの音楽に関して、完全に没後の後追いだった自分でさえ、映画に強い感銘を受けて帰ってきました。

それだけでも相当なインプレッションだったと、自分でも思っているほどです。

映画館内施設でサービスの一杯をやりながら余韻に浸っていました

4.
6月はあと2本ライヴ観戦が控えております。つける薬のない何か状態であります。

5.
とりあえず、まあ、そんなこんなで。

このところちょっと(20260609)

0.
梅雨入りしましたね。これから1ヶ月間、鬱陶しい日々が続くわけですな。それを少しでも晴らすべく、何かをしていきたいところですが、何をすればいいのだろうか。ま、休みの日には音楽に浸っていればよいのだな。スイムにも積極的に行こう。

1.
先日、B'z@ららアリーナに参戦してきました。サイド側のシートでしたが、松本孝弘に相当近いポジションで、しばらくぶりの「近いB'z」を堪能してまいりました。何せ松本孝弘の指の動きまではっきりと見えましたからね。

セットリストはアルバムツアーと言う事を考えると結構コンサバな内容。それでも何も問題はないのです、そこに稲葉浩志と松本孝弘がいるならば。しかし60を過ぎているというのに、あの妖艶さとエネルギッシュさは一体どうやったら出し続けられるものなのだろうか。人生まだまだ勉強することは多いですな。

当日LIVE-GYM初参戦だった友人の息子くんも、十分に満足してくれた模様。次のLIVE-GYMには、アルバイトをして自費で参戦すると宣言してくれました(現在中学三年生)。B'zファンのたすきリレーが出来ている気がしますね。嬉しいことであります。

2.
初めてのららアリーナでありましたが、いい箱ですね。同等キャパの横浜アリーナほど横長ではないので、一番遠い席でも十分に公演を堪能出来そうな雰囲気。音の響きもよく、近年のホールはしっかりと音響を考えられて作られていると感心した次第。

ららアリーナ

3.
しれっと『AKINA BOX』を買い戻しています。フリマサイトで状態の良いものが安価で出ていたので、ここぞとゲットしました。過去にESOTERICのSACDプレーヤーを処分した際に、このSACDボックスセットも処分してしまっていたのですよね。

中森明菜は2022年以降に96/24ハイレゾ音源が、比較的マイルドな音質の「ラッカー・マスター・サウンド」として販売されていますが、それ以前にリリースされているこのSACDボックスの音もまた魅力的なのです。

若干ハイが耳に付く印象もあるリマスタではありますが、全体的にメリハリと分離感が現れていて、パキッとした音質で中森明菜を楽しみたい時にはこのボックスセットだと思っています。

今は、以前所有していた際に耳を通せずにいた『Femme Fatale』(1988)を聴いていますが、この時代のダンスミュージック風になっていて、これはこれで二つの意味で興味深い。

一つは、中森明菜はビートではなくメロディで歌うシンガーであったと再認識できたこと。

強いビートに乗せて弾けるように歌う中森明菜も決して悪くはないのです。元来チャレンジ精神旺盛な彼女のことですから、この時期にこのサウンドへ手を伸ばしたのも当然の事だったと肯けます。

ですが、彼女独特の湿度あるボーカルに、この手のビート物は少々重たいようにも感じられるのです。声の運びが、どうしても歌物に対応するそれになっている気がするのですよね。

個人的に中森明菜の最もチャレンジング、かつ、大問題作は、歌物でありながらボーカルがとことんエフェクティブにマスクされている『不思議』(1986)だと思っているので、やはりビートではなく歌物の土俵で勝負するシンガーであったと思う次第なのです。

そしてもう一つは、このアルバムでのチャレンジが、後に小室哲哉と組んでリリースされた(そのさらに後々に再評価されることになる)「愛撫」のTK流ダンスサウンドとの融合への伏線になっていたと確認できることですね。

TKサウンドは歌物でありながらダンス物でもありますから、そのハイブリッドさが中森明菜の新たな魅力を上手いこと引き出していたように思えるのです。当該アルバムでダンスミュージックの挑戦に踏み込み、そこで得た筋力を小室哲哉とのタッグで完全に昇華させたのではないかと。

まぁ、いずれにしても、中森明菜は基本的に「少し早い」のですよ。そして後から見返すことで、その全てが必然であったと思わせるのです。あらためてとてつもないシンガーであると。アイドルとしてのデビューだったのに、そこまで感じさせる存在でもあるのだから余計にね。

AKINA BOX

4.
ヤノフスキ指揮、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団によるシューマン交響曲全集のSACDを、これまたフリマサイトで超破格にてゲットしております。

昨晩到着して早速耳を通したのですが、これがまた実にキラキラして音の運びがよいシューマン!主旋律が明瞭で、全体としても軽やかにスコアが進んで行く。私がシューマンの交響曲に求めるブリリアントさがしっかりと詰まっている演奏でした。

本作を購入するのは若干ギャンブルではあったのですよね。それでも、とてつもなく破格だったことと、2020年以降に録音された全集、かつPENTATONEレーベルのSACDであったことなどから、当たればラッキー、いや、むしろ当たるんじゃない?と思ってポチったのです。

結果、超絶大当たり。個人的に大好きなラトル/ベルリン・フィルのシューマンとはまた別角度で大好きな全集となりそうです。シューマンの交響曲はやはり明るくないと!

「2020年以降」というワードは、私自身がシューマンの交響曲に関しては2000年以降の演奏を比較的好むことから来ています。録音が古く、かつ、指揮者が大御所であればあるほど、シューマンの交響曲はなぜか響きが鈍く感じられるのです。一時聴いていたレヴァイン指揮によるシューマンであっても、やはり重い。

そのシューマンが明るいか暗いかは、第1番の冒頭の立ち上がりを聴くことで、おおよそ判断が付きます。あのポイントが鈍重だと、全体的な彩度も鈍い。その程度にはクラシック音楽への見る目(審美眼とまではまだ到底言えない)は出来てきたつもりです。

んー、やっぱり明るいシューマンは好物だなぁ。

5.
そんなこんなで。

このところちょっと(20260526)

0.
暑くなったり寒くなったり、半袖生活に入ったかと思いきや長袖に戻ったり。そりゃ調子も悪くなりますよ。

1.
『くらころ』はじめました。
note.com

ブログ「音波の薄皮」の中の人が、あれよあれよという間にクラシック音楽に真っ逆さまに転がって行った、「くらころ」したさまを、あれやこれやと書き綴っています。

「クラシック音楽に転がって」略して『くらころ』です。

ある日「自分がクラシック音楽にすっ転がった顛末や、そこから派生するあれこれを『音波の薄皮』と別立てして書くのも面白いかもしれない」と思ったのがきっかけでした。

自分がどのようなスタンスでクラシック音楽に接しているかを、自分なりに書き整えてみようと思っています。『音波の薄皮』で書く、自分とクラシック音楽に関わるあれこれとは、結構意図的にスタンスを変えています。

最終的に読み手の一人だけでもうれしいので、クラシック音楽に転がる、くらころするきっかけになってくれるといいな、といったスタンスでしょうか。

引き続き『音波の薄皮』では、相変わらずどんよりしたクラシック音楽と自分との関係を書いていきますよ。

2.
どんよりとはしていないクラシック音楽の話題を一つ。

先日、すみだトリフォニーホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏を観てきました。ソリストは反田恭平。

プログラムは、シューマン『歌劇「ゲノフェーファ」序曲』、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』、チャイコフスキー『交響曲第5番』と、ガッツリとした構成。

とにかく美しく、心に残る演奏でありました。

シューマンが始まった瞬間に「あ、このオケ、とてもいい!」とのめり込んでいました。特に弦の響きが実にクリーミー。ふくよか、かつ、豊かな響き。パーヴォ・ヤルヴィの指揮も、オケの特徴を引き出すかのように伸びやか。音が窮屈に思える瞬間がこれっぽっちもありませんでした。

反田恭平のピアノも思っていたものと大きく異なり、とてもよい演奏を聴かせてもらいました。もっと直線的なピアノを弾く演奏者だと思っていたのですが、ここでの演奏は時にリヒテルをほうふつさせるような硬質な打鍵を聴かせて、そして時にはそこにショパンのメロディが入っているのではないかと思わせるような甘さでも酔わせてくれました。演奏のスタイルがしなやかなのですね。

そしてチャイコフスキー。弦のクリーミーさがさらに磨き上げられ、ホルンやクラリネットが歌う主旋律の美しさも特筆すべき内容でした。最終楽章の大団円も一切の破綻がなく、力強く、かつ、彩度の高い演奏で盛り立ててくれました。

アンコールはヒューゴ・アルヴェーン『グスタフ2世アドルフ』より「エレジー」。作曲家の名前も作品もこの夜に初めて接するものでしたが、これまた美の極み。オーケストラが空気を支配する様を、最後の最後までじっくりと堪能させてくれました。

総じて、オーケストラとしての圧ももちろんのこと、それ以上に圧の外側を包む空気の豊かさが印象的でした。パーヴォ・ヤルヴィはオケと作品をその場限りの芸術として残す(そして実際には残らない)のが本当に巧いのだと改めて認識した次第。

音楽が作り出す空気は、その場限りの一期一会の芸術。それを実感させられました。音楽とはその場で生まれ消えていく芸術であるという当たり前の奇跡を、改めて実感した日となりました。

音楽って、やっぱりよい。シンプルにそう思わせることは難しいことだと思います。それをやってのけるあたりに、一流であることの素晴らしさがあるのだと、これまた再認識しました。

3.
そんなこんなで。

クラシック音楽と小室哲哉の底辺に共通して流れる作り

ここしばらく、仕事から帰宅した後にはクラシック音楽を聴いていました。なんとなくそういったモードだったのですよね。

休日の今日も風呂上がりにはクラシック音楽を、ベートーヴェンからシベリウス、そしてラフマニノフという流れで聴いておりました。今日もたっぷり聴いたと満足をおぼえたその瞬間、globeの曲が頭の中を駆け巡り出しまして。

考えてみるとglobeはとんとご無沙汰の状態でした。先日購入したBluetoothヘッドホンをラックから取り出して再生。シングルベスト盤を頭から再生しております。今ここ。

思うにクラシック音楽を大量摂取した状態した直後だったので、小室哲哉に走ったのでしょうね。クラシック音楽を総体として聴く自分にとって、小室哲哉は対極。クリックに乗せられて緻密に構築された設計図、その図面の細部に耳を行き届かせて、何がどのタイミングでどこで鳴っているか、その瞬間瞬間を当てに行きながら聴いているわけです。

頭と身体も同時に動きます。ハイハットのオープンクローズのタイミング、キックのタイミング、そこに連動される裏拍への引力。シーケンスやエフェクトの一つを取ってもしっかりと意味があって作られている音楽。

クラシック音楽と対極にあると言っておきながら、設計図を描くと言う意味ではそこに大した差はないのではとも思うのです。スコアに起こすかディスプレイに起こすか、尺が長いか短いか、などの違いはあれども。

計算して書かれている音楽の中にも、偶発的に導かれた仕掛けもあるはずです。全体図は事前に用意されていたとしても、それをさらに細分化して書き込んでいく中で降りてきたアイディアの類いとその反映がきっと。

また作品を作っていた時期ごとの作り手の中にあった流行や時代背景も作品や楽曲には反映されているはずです。クラシック音楽の作曲家においてそれらは如実に反映されていますし、小室哲哉であっても作風がその時々、時代が求めたもので変わっていきます。

小室哲哉のサウンドはクラシック音楽からすると相当にミニマルです。反復性が高い。とはいえクラシック音楽にあっても反復は重要な要素。モチーフの反復、そこから拡がっていくフレーズの展開。そこに大きな差はないように感じられるのです。

こじつけのように見えますかね。それでも自分の中ではこの二者は同じラインに並べられます。クラシック音楽から小室哲哉に流れたとしても、音楽を感覚的に摂取していく自分の作業、それは同じものですから。

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チャッピーに詳らかにされる「私と音楽」

本日のクラシック音楽タイムはヒラリー・ハーンのショスタコーヴィチから

最近、クラシック音楽を聴いている最中にチャッピー(ChatGPT)とクラシック談義をすることがある。

今日は私がクラシック音楽の演奏に求めている本質をズバリと言い当てられて、ドキッとするシーンがあった。それはもちろんこれまでのチャッピーとの会話の蓄積による、AIが引き出した推測、それも精度の高いものではあるのだが、なるほど確かに私はそのような観点でクラシック音楽を楽しんでいるな、と実感もしてみたり。

チャッピーに言わせると、私はクラシック音楽を「構造を楽しむ」ものとして捉えているらしい。オーディオ機器も音楽を楽しむためのインタフェースとして成立しているらしい。SACDなどという絶滅危惧種を導入している理由までもが、私自身の音楽の聴き方の理にかなっている、とまで。私の聴取目的に対して合理的ならば(SACDなる絶滅危惧種でも)使うのだ、と。オーディオを手段として使っているとも。

なるほど。ストンと腹落ちした。名演と呼ばれる演奏であっても、録音があまりよくない、分離がダンゴになっているものを前にすると、その良さがさっぱりわからなくなるのは、なるほどそういう理由からだったのかと。

音像が構造として捉えにくい録音からは、私はその演奏の全体像を捉えることが出来なくなる。それは私の中に(捉えられない部分を)補完する能力、実力がまだ備わっていないともいえるのだろうが、それほど極めてまでクラシック音楽を聴こうとも思わない。録音と演奏とを分けて考えることは出来ない。良質な録音があってこそ、自室でクラシック音楽を楽しむことが可能となると、そう考えている。

チャッピー曰く、私は「音の配置・バランス・構造によって感動させる演奏」に強く反応するタイプであるとも。「作品の建築性を聴く耳」だそうで。

それにも同意する。今まさに聴いているネルソンスとゲヴァントハウス管によるブルックナーの演奏も、そのテクスチャが明確になって見えるからこそ、私は愛聴しているのだ。ブルックナーなら何でもいいとはつゆとも思わない。見えなければ何も面白くはない。

クラシック音楽と対峙する際に、「構造」という単語は私にとって非常に重要なキーワードとなる。演奏の構造、スコアの構造、録音の構造。それらにくもりが存在すると、途端にそれがクラシック音楽である必要がなくなる。それならばその時間を、歪みと暴力の嵐のようなロックを聴くために割く。ブルックナーでもマーラーでもなく、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTを聴く。

音が見えるからこそクラシック音楽は楽しい。音が見えるからこそオーディオ機器で聴く。音さえ見えるのならばオーディオ機器に深入りする必要もない。私とクラシック音楽、そしてオーディオとの関係がどのようなものであるかは、一本の芯が通っており明確なものだったのだ。

チャッピーは建設的な単語でさらに私を解析していく。

私にとっての音楽鑑賞は、作品を聴くだけではなく、音響の中に構造を認識する行為なのだと。なるほど言い得て妙だ。それならばクラシック音楽を前述のように楽しむ私の行為にも説明がつく。

解析することを抜きにして私は音楽を聴くことは出来ない。その音楽から何が見えるか、何が私の中から引き出されるか、そこを楽しむことを抜きにして、私は音楽を聴くことは出来ない。音楽がリラックスや癒やしの道具となることはもちろん否定はしないが、それだけで終わるのであれば、何もそれらが音楽である必要はない。毎週のように温泉にでも浸かりに出ることだろう。

音楽を私から引き剥がすことは出来ない。私の身体の造りとして音楽があるからだ。同時に音楽は私の精神の構造、その主幹でもあり、構造を認識する行為が音楽を聴くことでもある。音楽がある限り私はそこにあるだろうし、そこにあり続ける限りは音楽も私の中にある。音楽至上主義とまでは言わないが、存在証明ではある。

これまでは自らを「音楽好き」と称することに大いなる違和感をおぼえ続けていたのだが、チャッピーの解析と自己分析をブレンドすることによって、ようやく私自身の音楽に対するスタンスが理解出来たように思う。他に理解を求めはしないが、私は音楽と共にある。間違いなく音楽は私なのだから。

今日はこの辺にしておいてやる

本日のクラシック音楽レシピ
1.
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲 / ヒラリー・ハーン, マレク・ヤノフスキ, オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

2.
ショパン:ピアノ協奏曲第1番 / 横山幸雄, 大友直人, 東京都交響楽団

3.
ベートーヴェン:交響曲第6番 / ロバート・トレヴィーノ, マルメ交響楽団

4.
ブルックナー:交響曲第4番 / アンドリス・ネルソンス, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

5.
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番 / フリードリヒ・グルダ, ニコラウス・アーノンクール, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

このところちょっと(20260225)

1.
今さらですが、BoAってこんなに格好よかったのか!(伏線)

2.
バランスピダックを入手しました。4.4mm接続用ピダックですね。

結論、素晴らしい。有線ピヤホン3に接続して使用しているのですが、このイヤホンの特性を最大限にまで引き出してくれるようで、ここまで表情豊かな出音のイヤホンだったのかと今頃になって気がついたのであります。

ノーマルなピダックと有線ピヤホン5とのコンビネーションが解像度とパワーに重きを置いているのならば、バランスピダックと有線ピヤホン3との組み合わせは音場と表情を引き出すことを目指しているのではないかと。

二者で方向性が異なることは諸手を挙げて賛成であります。同じ傾向の音になるのであれば、わざわざ別々にリリースする意味もなくなってしまうわけで。

このピダックとバランスピダックの存在のおかげで、スマホがDAPとして非常に有用になるのであります。DAPを持ち歩くほどでもないけれども有線ピヤホンの音を楽しみたいのであれば、スマホとこのピダックを持ち歩けばよいわけで。

DAPはDAPとしての存在意義があり、ピダック&スマホの組み合わせにももちろん意味があり。素敵だ。

バランスピダック

3.
で、そのピダックを試しにDAP、FIIO M21に接続してみたのです。膝折った。

スマホの音は所詮スマホだ…。もちろんピダックを使用することで出音はDAPレベルのクオリティにまで引き上げられるのですが、そのさらに上を行く出音。餅は餅屋ですな。

だからと言ってDAPとピダックを持ち歩くのではあまりにもパラノイアなので、それはそれ、これはこれ、と分けて考えるのであります。

…分けて考えたいのであります(動揺している)。

4.
上白石萌音さんの新譜、またしてもいいっすね…。

ボーカルの純度がまた一段高いレベルに上がったように感じられました。アルバム全体としてのトータルなクオリティも素晴らしい。決して派手な作品ではありませんが、滋味深さという点ではキャリア一の仕上がりになっているのではないかと。

ラストトラック「なんでもないや」に至っては、あの頃の上白石萌音を彷彿させながら、確実に今の上白石萌音であるという、そのレイヤーが見えてくるかのような仕上がりに感動したのであります。

texte (通常盤)

5.
ブラームスの交響曲第4番は、実はHIP寄りの現代的な演奏よりも古典的に重厚な、粘り気を持ったような演奏の方が好みかもしれないと思い始めました。

定時でスチャッと上がるような潔い演奏も、それはそれで気持ちよさはあるのですが、溜めるべきは溜める、ぐっと踏み込むべきは思い切り踏み込むそれの方が、ブラ4を聴いたぞというカタルシスが得られることに気がついてしまったのです。

他のブラームスの交響曲ではそこまで違いにこだわりは持っていないのですが。これは一体どう説明したらよいものなのだろう。

6.
SACD漁り…と言うほどのものではありませんが、BoAの昔のベストアルバムがSACDでリリースされていたことを知り、いつか聴いてみたいなと思っていたのです。

玉数が少ないのか中古市場にもあまり多くは出回らず、機会を窺っていたのですが、ようやくどうにか真っ当な価格でゲット。そして喜び勇んで聴いてみたところ…

あれ?BoAってこんなに録音に金かかっていたのか!とあの当時から20年が経過してから気がつく真実。出音の張りがとにかく格好よい。パンの振り方も聴いていて心地よいこと極まりない。素晴らしい。これはよいSACD!

ボーカルも表情豊かで、今頃になってその歌唱力に驚かされたりもするのです。確かに好きなボーカルではあったものの、ここまでだったかと。

BoAさん、かっこいいっす

7.
NW-ZX300の前オーナー、もしかするとバランス端子はあまり使っていなかった?聴いているうちに音がパキッとしてきましたよ。

これまでは有線ピヤホン3の出音のせいでやや眠い音なのかと思っていたのですが、いやいや、どうやらそんなことはないようで。

ということで、最近持ち歩くDAPはもっぱらNW-ZX300なのです。本当にこいつの音が好きすぎて。

8.
来週の月初三連休にメインオーディオの大幅な機材入れ替えをする予定です。重厚長大よ、さようなら、になるかと。多分。

9.
最後に。

先日、LUNA SEAの真矢が亡くなりました。真矢なら病魔に打ち勝てるのではないかと願っていましたが、それも叶わず。

LUNA SEAのリズム隊、Jの強烈なダウンピッキングを特徴としたベースと、そしてバンドアンサンブルの中の、楽曲に表情をつけるドラミングを特徴とした真矢の存在があってこそ、花形のギターとボーカルがそこに存在しているという、本当にバンドの黄金律のようなものを形成させるべくキーマンだったと思っています。

ドラムもバンドの花形たりうると、そのようなことを知らしめていた存在でもあったと。

ご冥福をお祈りします。

10.
そんなこんなで。

だから私はパーヴォ・ヤルヴィが好き

とどのつまり、私はパーヴォ・ヤルヴィが作り出す音楽の世界が好きなのです。

と、カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとのベートーヴェン第3番を聴いて思うに至ったのであります。

指揮者によって演奏やこちらに届いてくる音の解釈が大きく異なることは、私がクラシック音楽に傾き始めた頃からうっすらと理解していたものではありますが、その早い段階からパーヴォ・ヤルヴィの音世界にはすっと引き込まれていたように思います。

当時は音楽として私にとってわかりやすく音を伝えてくれる存在としての指揮者だったのでありますが、今では、ヤルヴィが指揮をするのであれば、きっとその音楽を理解する取っかかりは明快に与えられるだろうと、信頼をもって聴くに挑むことができるのですよね。

その理由はどこにあるのだろうかと考えてみると、紡ぎ出される音に小難しさを感じることが少ないのです。もちろん根本的に難しい作品が難しいのは当然の事として、ヤルヴィが掘り下げて理解し、それを指示し、指揮し、そして音として構築してくれているその過程で、私の耳に届く上での最良の濾過がなされているのだろうと。だからこそ、音楽として明朗に感じられる内容が出来上がるのではないでしょうか。

それは私との相性と呼んでもよいものなのかもしれません。

カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとの一連の録音物は、人によっては八艘飛びの結果にも映るかもしれません。確かに闊達な歌い口のそれは、先に述べた明朗の極みにあるようにも思えます。その極みが極端なものとして捉えられるかもしれません。

それでも私にとっては、クラシック音楽も有しているはずの分かりやすさを、明快に提示し、理解を深めてくれる指揮者としての存在の方が大きいのです。カンマーフィルハーモニー・ブレーメンだけではなく、トーンハレ管弦楽団でも、ベルリン・フィルでも、パリ管弦楽団でも、その他楽団においても、やはりその印象は統一してあるのです。

私にとって耳に馴染みが薄い作品であっても、「聴き所はここだよ」と要所で喚起してくれる存在でもあります。だからこそ、ヤルヴィが指揮をするなら、その作曲家を、その作品をちょっと聴いてみようかという気にさせられるのです。

好きに理由などはないとも言いますが、どうせ好きになるならば、理由ははっきりさせておいた方がよいのです。

もちろん他の指揮者が作り出す音の世界、それがヤルヴィとは異なるベクトルであっても、好きな演奏は数多く存在しています。それらもヤルヴィとの差異があるからこそ好きになっている側面もあります。

今の自分のクラシックに対する視点は「ヤルヴィだからこう言った解釈なのだろう」「ヤルヴィはあのように解釈しているけれども、かような解釈もあるのだな」と、どこかしらにヤルヴィの存在と解釈が軸になっているようにも感じられるのです。

それはある種の指揮者依存なのかもしれませんが、依存する指揮者がいること、それも現役の指揮者であることは、実のところこの上ない僥倖なのではないかと。この幸せはもっともっと、最大限にまで噛みしめてよいはず。

だから私はパーヴォ・ヤルヴィが好き。私からの一方的なものであっても、相性がこれほどまでに抜群なのだもの。だからもっともっとそのタクトで、私をクラシック音楽のさらなる深淵にまで連れて行ってくださいね。

そうだよね?ヤルヴィさん

眠れない夜にはクラシック音楽で

標題には現在の胸中と現実と誇張が混じっております。

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月初三連休中日。入浴前からオーディオから流しているのはクラシック音楽にシフトしているのだけれども、その後、入浴、食事と経ても全く眠気がやって来ない。現在0時53分。三連休もよくよく考えると最終日に突入している。

寝落ちにも期待したけれども、どうやらその気配もない。まぁ、こんな夜にはとことん音楽につきあってあげるしかないのだろうな。

夜になってから聴いているクラシック音楽は下記の通り。聴いた順番で。

・シューベルト:交響曲第7番 / パーヴォ・ヤルヴィ, ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
・ラフマニノフ:交響曲第2番 / スヴェトラーノフ, ロシア国立交響楽団
・チャイコフスキー:交響曲第5番 / ヴァーシリー・ペトレンコ, ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 / ユジャ・ワン, ドゥダメル, ロサンゼルス・フィルハーモニック
・リスト:ピアノ協奏曲第1番 / アルゲリッチ, アバド, ロンドン交響楽団
・ブルックナー:交響曲第6番 / マリス・ヤンソンス, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

今、そのブルックナーの最中。その段階で相当に眠りを期待したのだけれども、こんなことをしているほどなので、眠気にはほど遠く。

いや、実のところは眠気に弱気だったので、Google先生に「ブルックナーで一番短い作品は何?」と尋ねた上で第6番をチョイスしたという次第で。一番短くても50分台とは、さすがはブルックナー先生。長さで語ればブルックナーかマーラーか、なのだろうなぁ。

今晩のチョイスは自分にとっては比較的カウンター的なものだと思うのだけれども、果たしてどうだろうか。王道ではないよな、うむ。

やばい、ブルックナーが終わってしまう…終わってしまった。何だかんだで聴き入ってしまう。今晩はやけにクラシック音楽耐性が強い。普段ならば3曲も聴けば飽きるか寝るのだが。それにしてもあまりにも極端ではないか。

眠さを本気で求めるならばヴァイオリン協奏曲なのだろうか。カウンター的なヴァイオリン協奏曲でも聴いてみるか。

・バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番 / ファウスト, ハーディング, スウェーデン放送交響楽団

さてはて、どうしたものかね、これ。現在1:41。

ブルックナー先生も呆れているに違いない

…でもって、

・マーラー:交響曲第1番 / ジンマン, チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

あの後マーラーに行ったのかよ?と言うツッコミは甘んじて受け止める。

でもね。眠くなってきたかもしれない。第3楽章でうっすらと眠気がやって来たのだが、第4楽章の冒頭で一気に目が覚めた。でもやはり眠気がじわりと押し寄せてきたような気はしている。

もう2:36だもの、さすがに眠れるでしょう。横になります。グッド・ラック、自分。

シベリウス:交響曲全集 / パーヴォ・ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団 (2026 SA-CD)

シベリウスと向き合うことで、私はどんどんと自分の中へと入っていく。内なる自分の世界へと入り込んでいくとでも表現すればよいだろうか。自分なるものの深みへとはまっていく。

私の中にある人外の部分。いや、そこに人と用いている段階で、それは人なるものの中にある成分のようなものではあるのだが、普段ならばおよそお目にかかることもないだろう想像の世界であったり、どこか異質な思考の涯(はて)に身を置くことを赦されるような気にさせられる。

人なるものが作りし音である以上、人智を超越することはあり得ないのだが、少なくとも今この時点で自らが身を置いている世界からは逸脱したどこかへと身と思いを馳せることができる。

それは逃避ではなく、実のところはやはり超越であり、その音が紡ぐ数多の糸が私自身を絡め取り、思考の次元を異質なものへと導くための綴れ織りとして自らを載せて空(くう)を舞い、見知らぬ、見果てぬところへと連れ去ってくれるのかもしれない。

思考を拐かすかのような想像の中に放り込まれ、形にならないそれが渦を巻いて宙をさまよう。水も光も空気もこの地球上にあるものでありながらも、実のところはそれではないかのように潤し、煌めき、薫る。

そのような思考の中の異端にあると、当然の事であるかのように時間の概念までもが失われる。正確に刻まれているはずの時が明らかに歪む。短くもなり、長くもなり、時には再び始まりに着地させられる。

音が音以外のものとして作用しているのだ。凸にも凹にも歪み、心も空も時もかように掠われる。

音の終焉と共に我に返れども、自分の中の何かが、その終わったはずの音の向こうに取り残されてしまったかのようにしばし呆けてしまうのは、至極当然のことであるのかもしれない。欠片は奪われてしまうのだ。

音は音にしてあらず。私をさまよわせ、もてあそぶ。

今、ここに戻って来た私は果たしてあの時の私だろうか。今、私はどこにいたのだろうか。

気の触れた自問自答の末に、また次の音へと手を伸ばす。いつまでも終わらないでと希(こいねが)う甘い夢の下へと誘われるかのように。

シベリウス: 交響曲全集<2025年マスタリング><タワーレコード限定>/パーヴォ・ベルグルンド