音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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サイトは次々死んでいく

もう何年も開いていないブックマークを久しぶりに紐解いてみたのです。多くの「好きだった」音楽関連サイトがそこには封じ込められており、そして自分の中からはすっかり忘れ去られていたのですよね。

ええ、体感8割が亡くなっておりましたとも。2割も生き残っていたことに驚いたくらいです。

と、タイトルでamazarashiの曲をもじって風呂敷を広げましたが、まぁ、その理由はおおよそ推測できます。

自分のペースで更新が出来なくなったのでしょう。

人気が出たあまりに自分のペースを崩したサイト、自分で掲げた更新ノルマがこなせずに自滅してしまったサイト、等々。

一方、生き残っていたサイトはしっかりと書き手のペースを保っていました。書く時には書く、書かない時には書かない。

サイトを始めるのは簡単です。書きたい!と言う衝動さえあればスタート出来ます。ネタもある程度ストックがあれば書き続けられます。

問題はそれらが枯渇した際にどう振る舞うか、なのですよね。

もちろん理由があってサイトを閉じることもあるでしょう。

自分もこれまでいくつかのサイトを立ち上げては閉じてきました。それらは全て「ネタの枯渇」によるものでした。書き続けることが出来なくなったのですよね。もしくは「それ」に対する興味を失ったか。

幸いなことに私の場合は枯渇のしようがない自分と音楽を相手にしていますから、これはいつまでも書き続けられる。幸いなことにアクセスもレスポンスも大してないので、自分のペースを保ち続けることが出来る。筆圧やネタの掘り下げ方のコントロールも、単なる自分の日記に成り下がることも容易。

何せ源泉が次々に現れてくれるのです。こんな入れ食いウハウハ状態はない。

書き続けるためにはその動機とモチベーションとなる何かがあれば、どうにかなるもので。

生活環境が変わってしまい、サイト更新に割く労力や時間がなくなることもあるのでしょう。それはそれで人間の営みですからやむを得まい。自然消滅も当然の成り行き。私も余力がない時にはサイトの更新になどかまけていられません。

自分がリンクを張ることをしないのは、そのような形で「亡くなる」サイトを数多く見てきたからであります。最早ブックマークすら習慣にはありません。たまに気になって見に行く程度。足跡すら残さない。それで万事OK。

そんなこんなのこのサイトを見に来てくれる方もいるのです。それはそれで励みになっています。

でもね。

一番の励みはそこに音楽があると言うこと。それに対して自分が何かを思うことが出来ると言う精神状態にあること。

それが全てなのです。

せめて、今、自分が気になっているサイトが一日でも長く続いてくれることを祈るくらいなものです。サイトなど自分中心でよいのです。自分がやりたい事をやりたいようにやる。それでよいのですよ。

ブラームス:交響曲第3番&第4番 / ヘルベルト・ブロムシュテット, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 (2022 96/24)

期せずして、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管によるブラームスの交響曲全集マラソンと相成りました。言いたいことは前二つのアーティクルで言い尽くした感があります。言葉もなくなってきた。ここまで来ると圧巻であります。

それにしてもベタではあるのだけれども、やはりブラームスの4番は大好物でありますね。その好きである理由が、楽曲を構成している音、フレーズの一つ一つに細かく存在していることを再発見させられました。自分の中にあるピースがしっかりと枠にはまっていく感覚とでも言いましょうか。音が愛おしく感じられるほどまでに。

それを極上の演奏で楽しむことが出来るのです。こんな幸せなことがあってよいものか。

至福の音が部屋を満たす、至福の時を送ることが出来ました。ここまで一気に聴かせてしまう、聴こうと思わせるブラームスはこれまで体験したことがありませんでした。

これを機に、今まで聴いていたブラームスを再度紐解いてもよいのかもしれません。比較から導き出される新発見がきっとあるはず。クラシック沼に招待されてしまった身として、それは積極的にやってみたいことでもあるのです。

ブラームス : 交響曲第3番&第4番 / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団&ヘルベルト・ブロムシュテット (Brahms : Symphony No.3 & 4 / Gewandhausorchester Leipzig & Herbert Blomstedt) [CD] [Import]

ブラームス:交響曲第2番&大学祝典序曲 / ヘルベルト・ブロムシュテット, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 (2021 96/24)

ブロムシュテットとゲヴァントハウス管による21世紀のブラームス録音。第1番に引き続いて第2番を。

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一聴して分かることがある。譜面のエディットや新しい解釈を織り交ぜると言ったそれらの斬新さをあえて取り込まず、譜面のなすがままに音の流れを任せていること。無茶なコントロールも全く感じさせない。不必要に音を盛り立てることもない。

一人の聴き手である自分は演奏に何の違和感も持たず、かと言って新機軸に驚かされることもなく、構えずに自然体で聴くことが出来る。

演奏がそうであると同時に聴き手にも負荷を与えない演奏。それがこの年齢に達した事による指揮法の答えなのだろうか。

そしてオーケストラ。突出しない、それでいて決して凡庸にはとどまらない。ドリームチームでは決してないと言う強み、一体感をいかんなく発揮している。

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このところ、クラシック音楽を聴く上での感動の基準が「自分にとって格好よく聞こえるか否か」と言ったシンプル…と言えば聞こえはよいが、ひどく浅く単純な物になっていたことを痛感させられた。もっと言葉にならない、深いレベルでの感動がクラシック音楽では味わえていたはず。

もちろん常にそれを求めていては肩が凝る。しかしながら、聴いてきた中に、背筋が伸びる演奏は確実に存在していたはず。それをそうと捉えることを忘れていた自分がいた。

感動をすることに対しては理屈を抜いてシンプルであってよい。しかしそれをもたらしてくれる存在に対して、敬意を持つことを忘れてはいなかっただろうか。

そのような考えに至るほど、この演奏は自分の感動の源について思わせるところの多いものだった。

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続けて第3番&第4番に行きます。

そうだ。これまでブラームスの序曲はオマケ程度に聴いてたのだけれども、それは全くもって間違った聴き方だったことも、ここで思い知らされたことを記しておきます。これらは常に第4楽章、クライマックスが描かれた作品であったと。

ブラームス : 交響曲第2番&大学祝典序曲 / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団&ベルベルト・ブロムシュテット (Brahms : Symphony No.2 & Academic Festival Overture / Gewandhausorchester Leipzig & Herbert Blomstedt) [CD] [Import] [Live]

ブラームス:交響曲第1番&悲劇的序曲 / ヘルベルト・ブロムシュテット, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 (2020 96/24)

ブロムシュテットが90代になってから録音された、ゲヴァントハウス管とのブラームスを前に、ただただ頭を垂れひれ伏すのみ、の巻。

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「クラシック好き」程度の人間ではあるので、ブロムシュテットが存命であることも、もう相当な歳であることも知ってはいました。

だからこそ、この録音を持ち上げている声があちこちに見られることに対し「どうせ年齢と権威を前に尻尾を振っているだけなのでしょう?」と斜に構えていたのです。

一方で「でも、あの今のゲヴァントハウス管だしな」と自分の中に湧き上がってくる好奇心は抑えきれず。ネルソンスとのブルックナーがとにもかくにも自分にとって素晴らしい演奏と言う位置づけにあったので、これが気にならないはずがない。

まぁ、お試しに第1番を…と思って聴いてみたらですね。

澄み渡り、かつ、彫りの深いブラームスだ…。

あのブルックナーで聴くことの出来た彫りの深いテクスチャをここでも見せつけられましたね。重厚でありながらも流麗。この二律背反の音作りが共存しているのです。

重いブラームス、古いブラームス、新しいブラームス、軽いブラームス。これまで様々なブラームスの録音物を聴いてきましたが、この録音には自分にとって不足となる要素が全くないのです。

「高齢でありながらもフレッシュな演奏」などと言う安易な修辞をここに記すつもりはさらさらありません。高齢だからこそ可能とする、その経験値が物を言う音作りがあるのだと、痛いほど思い知らされましたね。

こうなったら今日はとことんこの録音とお付き合いします。全てのリリース物を購入してしまいました。

そうそう。録音の素晴らしさにも触れておきます。ペンタトーン。それだけで説明は十分かと。なぜこれをSACDでリリースしないのかね。ペンタトーンはSACDから撤退したと言う話もどこかで見たような気はするのだけれども。

ブラームス : 交響曲第1番&悲劇的序曲 / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団&ベルベルト・ブロムシュテット (Brahms : Symphony No. 1&Tragic Overture / Gewandhausorchester Leipzig&Herbert Blomstedt) [CD] [Live] [Import]

FUN for FAN / 鈴木あみ (2001 FLAC)

朝からハイカロリーに消費してしまったので、腑抜けになっている私がいますよ。だからと言って安室奈美恵の後に鈴木あみもなかろうて。

それにしても、あれから何十年経っても鈴木あみの「Be Together」だけは受け入れられないのだよな。それ以外はよくも悪くも聴き流せるのだけれども。小室哲哉が余力で曲を作っていると勝手に感じているあたりが素敵で。そんなてっちゃんが好き、的な何か。

FUN for FAN

大人への脱皮を図らずして人気を維持した嵐

嵐が音楽活動において大きな成功を収めた理由をなんとなく考えていた。それを導き出すにはジャニーズユニットの歴史を簡単に振り返るとよいのだろうと。

ジャニーズユニットの巨大なる存在感はSMAPの役割が大きな分水嶺になったのは間違いなく。SMAP以前のユニットは栄枯盛衰を伴っての存在であり、デビュー直後の瞬発力をどこまで維持出来るかにかかっていた。しかしその瞬間最大風速的な人気を保つために打った施策をもってしても、人気を長期にわたって維持することは困難だった。

その活動の場が音楽活動に依存していた、それ以上の展開が困難だったこともユニットが比較的短命に終わることを重ねてきた理由だった。

音楽だけでアイドルユニットを存続させることが難しいのは、今も昔もさほど変わりはあるまい。ファンに飽きが来ることに対して、次々と手を打っていかなければならない。

ジャニーズユニットの場合は「大人への脱皮」が命題として立ちはだかっていた。

若々しさ、エネルギー、キャラクターで爆発的人気を獲得した後には、それを模索し、そのための背伸びとも言える大人の色香を演出する楽曲を施してきた。そして常に挫折していた。

SMAPが開墾した、音楽だけでしか活動出来なかった存在から、バラエティ、ドラマ等のテレビ出演への展開、積極的なソロ活動等でその構成人数以上の活躍の場を拡げることで、ユニットを長期的な成功に導く方程式に乗せることの出来た大きな存在に嵐はなったと言える。

その先人の成功により音楽だけで勝負をする必要はなくなっていた。人気を維持するために音楽の方向性を変える、無理に大人を演出すると言った轍を踏む必要がなくなっていた。

人気を保つための土壌を築いたことで、音楽活動における自由度は格段に上がった。年齢は時間の経過とともに自然と重ねていくもの。一方で音楽活動においてはいつまでもファンの心をつかむ若さがあってもよい。自由度の高さは人気を保つための一つの鍵ともなった。

そのようなことをこのアルバムを聴きながらつらつらと考えた次第。楽曲毎にキャラクターやシチュエーションを演出すること、ソロ楽曲を織り交ぜること、若さのパワーから悩みまで、様々な要素を詰め込むことによって正に音楽におけるバラエティ番組を演出している。ポップスとしても明解であり、無邪気にそれを楽しむことが出来る。嵐が展開していた活動を一枚に凝縮させている。「音楽としても楽しめる嵐」がここにある。

ここではSMAP以降と言う文脈を用いたが、パッケージメディアの急速な衰退に伴う音楽を取り巻く環境がまた大きく変わったことで、くしくも嵐以降と言う文脈も今のジャニーズユニットには用いることが可能だろう。大きなパイから小さなパイを数打つ戦略へ。マジョリティの細分化とも言える現代の流れに次なる嵐を求めることはなかなかに難しいことであるのかもしれない。

Popcorn(通常仕様盤)

シベリウス:交響曲第5番 / クラウス・マケラ, オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 (2022 96/24)

3連休の中日で暇を持て余しすぎてしまったので、なんとなく再生していた。

それにしてもなぜこのシベ5をよく聴くのか、自分でも疑問なところはある。取っつきにくいし、主題が見えないし、面白いのは最後の「ジャン!」6連発くらいだし、全体としてみれば退屈なクラシックの典型だと思うし。

ああ、でも、その最後の「ジャン!」は、ある意味においてはカタルシス抜群だよな。そのためだけに数十分聴き通すと言う、クラシックリスニングの苦行を快感に変えるすご技。

シベリウス:交響曲全集