音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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空中 / Fishmans (2005)

かさんでいく引っ越し費用を前に一度は購入を断念したけれども、買うべき物とペンディングがきく物とを冷静に考えようが興奮して考えようが、買わないでおけるはずがないということで購入。ライナーにミスプリがあったというのは微妙に残念ではあるけれども、いや、そんなことはどうでもいい。

選曲の妙はもちろんのこと、絶妙なトラックギャップに興奮を覚える。これを聴いても選曲が云々と文句をつけたがる輩は、あと十年は音楽への言及を辞めるといい。そんなところに文句をつけている暇があったら、お前が感じたことを言葉に記す労力に割け。バカチンどもが。

ともあれ、デモ&レアトラックのDisc2を聴くことで、最早、一番の語り部を持たなくなってしまった音楽を解析していく自由度の高さに、涙につながりかねない感動を覚えたりもする。「いかれたBaby」のデモトラックを前にして、習作というポジションの意味に対して認識を新たにした次第。

二度と新しいトラックが作られることのない、「以前そこにあった音楽脳」を前に、僕らは自分たちにとっての無念さを噛みしめることしきりではあるけれども、時間を経て、今、正当な手続きを経たコンパイルを手渡されることで、音楽が超えてしまう時間というものに対峙しているという喜びに、ただ純粋に浸ることが許されるのをありがたく感じよう。あの時の音楽でもあり、そして、今なお、自分が位置している気分に適したチョイスが許されることが、自分が今いる状況が承認してくれている音楽における至福だと思うといいんだろう。

こんなどうでもいい言葉を重ねれば重ねるほどに、音楽そのものの純度から遠ざかってしまう。酸化させてしまう前に、その結晶を自分と音楽との橋渡しに構造を保ったままで伝導させていくといい。僕とこの音楽も、まだ、しばらくの時間を保証された証書を、今、手渡されたような、そんな感じなんだ。