2時過ぎに目を覚ましてしまった。
30代の頃なら、これだけのことで絶望を抱える夜が始まっていた。眠れない身体を抱えてもんどり打つ。
40代も終盤に入りかけた今、このような時間に目覚めても、朝方に二度寝をするだろうと思うにとどまる。
希望と絶望が表裏一体となって存在する。時に自らを蝕む。それが若さ。
歳を重ねれば諦念が大きなウエイトを占めるようになる。それは悲しいことではない。余裕が生まれていることの証左。
そのようなことを考えていたら、このアルバムを聴きたくなった。
鈴木慶一、1991年作品『SUZUKI白書』。珠玉の曲が並ぶ、自分にとっては宝物のような1枚。
1991年。買い求めたのは私がまだ17の頃。当然の事のように、そこで歌われている言葉よりも、サウンドプロダクションにばかり耳が行っていた。
2021年、私は47になった。鈴木慶一がこの作品を作り上げた40と言う歳をいつの間にか通り過ぎていた。
今なら、言葉の一つ一つが、まるで自分の心を歌っているかのように響いてくる。いや、その言葉に手が届く、届いたと表現するのがふさわしいのだろう。
自分の中へと届く歌詞を引用する。
---
最強の敵は 自分の中にいる
最高の神も 自分の中にいるはず
『LEFT BANK [左岸]』
---
一番いい思い出だけとって
水に貼りついて 草を食べながら
月を見上げて 赤道に戻る
一番悪い 思い出置いて
庭に埋めて 鎖まきつけて
棒きれみたいに 生きてゆく
『月にハートを返してもらいに [SATELLITE SERENADE]』
---
抽象画を鑑賞するがごとく、詞の世界。
これら言葉の真意が10代の自分に理解出来る由もない。
いや、理解ではない。受容、なのだ。
先に諦念という言葉を用いた。諦めることは受け容れることではなかろうか。
自らの中にある器に、自らを取り巻く事象を放り込む。それが全て、それで終わり。
もし器からはみ出してしまった場合には、覆水盆に返らずと念仏のように呟き、置き去りにして先へと進んでいく。
受け容れた数多の事象は、放置していれば発酵していく。そして他の事象を飲み込んで、自然現象として煮立ち、蒸発していく。それこそが昇華ではなかろうか。
まだその領域に自分は立ってはいない。理屈としてそうあることを漠然と捉えているだけの話。
50代がすぐそこにある。昇華の人生は果たして存在しうるのだろうか。
夜中に鈴木慶一が呟く。
---
もう半分生きちゃったね
『サラダボウルの中の二人 [ME AND MY GIRL IN A SALADBOWL]』
---