下記画像のものをね。一応このようなものも本棚には収納されているのです。
クラシック音楽沼に足を踏み入れ始めた頃に、古本で購入したもの。ガイドブックとして役に立つことを期待して買ったのですが。
一読して一刀両断。
「私はあなた方のポエムに用はない。音楽そのものに用があるのだ」
と。
おそらくそれを境にして、
「自分の勘と耳を信用し、時間をかけてそれを蓄積していけばいいのだ」
と割り切ったのですね。
クラシックを語る上でのコンテキストと言うべきか、コンセンサスと言うべきか、そのようなものがあるのでしょうが、それにしてもあんまりだ、と思ったのです。
これじゃ、クラシック音楽に入ってくる人をふるいにかけちゃってるよ、と。
「取っつきにくいのは音楽ではなく、あなた方だ」
とね。
クラシック音楽評論における既得権に固執するあまり、このような言葉の曼荼羅、それも出口の見えないタチの悪い曼荼羅を編む術を駆使して、音楽を自分だけの所有物にしようとしているのではないか、とか、読み手が何を欲しているのかを意図せずに自分の世界を押し売りすることに自覚のない専念をしているのではないか、とか。
とどのつまりそれって、結構ねじれた愛情のようなものに陥っているのではないか、ともね。
もしクラシック音楽が先細っているやら存亡の危機に瀕しているやらと言うのであれば、必要なものは、それに触れる機会の創出と「The Young Persons' Guide」なのではないのかな?
砕かなきゃ、その言葉を。
信じなきゃ、その感性を。
もちろん、そこで苦心されている方もいらっしゃいます。それは重々承知の上。
でもそれを覆い隠してしまうような…ああ、言いたくなかった。
「言葉の暴力」なのではないのかな。それこそ。
ああ、調子に乗ってこんなことを書いている自分がいや。でも書かずにはいられない自分がいや。
書いちゃったものは仕方がない。残しておこう。