午前5時のシベリウス。こんな早くにシベリウスを聴いてもいいじゃない。
ふと思ったのだけれども、シベリウスには現代音楽の香りが微妙にするよね。不協和音的な音の流れが頻出しているような気がする。もちろんそれは曲が進むにつれ、定型としてのそれまでのクラシック音楽の流れに収斂されていくものではあるのだけれども。それでも決して取っつきやすいクラシック音楽だとは言い切れない。
多くの「なぜ?」がこのシベリウスの第5番には多分に含まれているような気もしてくる。音に対する高い壁を作り上げている音楽、それを登り切ることが快感に繋がる音楽とは異なり、音の迷路の出口を手探りで求めているうちに、気がつくと全てのルートを辿らされているような感覚とでも言えばいいのかな。音楽としての表面積が広く感じられる、とも言えるだろうか。