音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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ブラームス:交響曲第4番 / サー・サイモン・ラトル, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (2008/2014 44.1/24)

クラシック音楽の演奏、そこには伝統と革新の二派が存在すると思っている。

おそらく現存する楽団は大きくその二派に分けることも出来るのではないかと。もちろんその両翼を担う楽団も存在するのだろう。

ベルリン・フィルはもちろん確固たる伝統を保っており、また同時に、そこにあぐらをかくことのない演奏家集団としての推進力を持ち続けている楽団ではないかと。

そのような当たり前のことを思った理由は、このラトルによるブラームスを再び紐解いたからに他ならない。

伝統集団がブラームスを演奏すると言うある意味においてコンサバティヴな行為も、時代によってその意味合いは変わってくるのだろう。ラトルを迎え入れた時期のベルリン・フィルは、その変わる意味合いを軌道に乗せるために存在していたようにも思える。

ブラームスの交響曲を演奏する時点でその行為は「伝統的行為」に則ったものであり、そこからいかにして新しいものを引き出すか、もしくはそれを提示するかに心血を注いだのがラトルだったのではないかと。

大革新はギャンブルでしかないが、革新なくして時代に乗り続けることはままならない。時代に乗せるために取り払わなければならないのは演奏のカビ臭さである。焼き直しは必要とされない。ラトルはどうしたのか、その一点に尽きる。

ラトルが行ったのは「ドライヴ」と「ハンドリング」ではないかと。演奏の土台は出来上がっている。必要とされたのは自らが持つ色づけの力と、演奏を率いるために自らが発するグラヴィティを最後まで保ち続けることなのだろう。

ラトルのドライヴ力。それは演奏に艶を乗せること。その時代に見合った光をいかにして放つか、いかにして色を与えるか。氏の指揮による演奏が私にとってカラフルに感じられるのは、そこに大きな特徴があるからなのだろう。

そして集中力が全く切れることのない、束ねられた演奏。押す時も引く時も手綱にブレが生じることなく、オーケストラを着実にコントロールし、間違いのない道程でゴールへと導く。そこに迷いを持たないことで、聴き手にも集中を与えることを可能としている。

それでいて有無を言わせぬ演奏ではなく、それを聴く者に十分な想像のマージンを与えている。完璧な構造物とも異なり、あそびを持たせた演奏であるとも言える。

確固たる意志を持つと同時に、光と色を放つブラームス。そこにあったのは伝統と革新の両立。ラトルの強みを改めて認識させられた。

ブラームス:交響曲全集