音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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手紙 〜拝啓 十五の君へ〜 / アンジェラ・アキ (2008 44.1/16)

『THE FIRST TAKE』で久しぶりに画面の中で歌っているアンジェラ・アキを見た。イヤホンで彼女の弾き語りと学生によるコーラスを聴き、目頭が熱くなると同時に思った。

この曲が世に広まっていたあの頃、私は30代の半ば。今思えば人生の最も深くて長いトンネルに入り込んでいた時期だった。人間としての日々は送りながらも、寄る辺のない私自身を日々嘆いていた。心に虚が生まれ、自ら命を絶つ方法が毎日心の中に浮かぶ、あれは人生に対する絶望とも異なる、もしかすると私なりの無の境地だったのかもしれない。

事実、私は一度、そうするつもりもなかったのだが、アルコールと大量の睡眠薬を一晩に摂取し、結果として誰かを悲しませることになった。そのようなことをしても誰も、何も幸せになれるはずもなく。

アンジェラ・アキによるこの曲は、15歳の視点と大人の僕の視点とが交わり、寄り添い昇華していく。おそらくテーマにあるのは「普遍」なのだ。人間として生きていく上で、障壁にならないものはない。それが初めてぶつかるものなのか何度もぶつかってきたものなのかの違いでしかなく、そこからは決して逃れることは出来ない、あなたも僕も何も変わるものはない、一緒なのだ、と。

激励でも叱咤でもなく、そこでは寄り添う心と眼差しが人の自立を促し、歌っている。心に対し直接手を差し伸べることはかなわない。障壁を乗り越えるには、最終的には自らの力が物を言う。どれだけ泣こうが、挫けようが、負けようが、自分で乗り越えなければ人間は次へと進むことは出来ない。

しかしそれを、15歳の君一人の力だけで乗り越えなければならないとは、決して歌ってはいない。大人の僕が常にそこに寄り添っている。暖かい眼差しで見つめている。そして今を生きている。その今が幸せであるとも歌ってはいない。「苦くて甘い今」なのだ。

30代半ばの自分に響いたのはこのメロディはもちろんのこと、大人にも手を差し伸べられたその歌詞にあった。あの時の自分がどのようなものであったか、それすらももはや記憶の奥に眠りかけているが、この曲を前にして目頭が熱くなる、いや、もっと激しく涙を流す夜があったはずだ。まだ人生、このような日々が続くのかという絶望にも似た何かと、このような日々でもまだ何かの救いがあるのだろうかと一縷の何かと、それらが交錯して。

50歳になった今でも、自分の人生にさほどの意味があるとも思いはしない。それでも今を生きてはいる。あの晩に過って絶たれなかった命は今でも続いている。人生などは大した意味も何もなく、無から始まり無に返るだけの話。その過程において何を為すかでもなく、何を潔しとして生きているか、なのではないかと。

「自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる」

日々は自問自答にあり、それはいくつになっても終わることがない。解などは恐らく存在せず、それこそが解なのかもしれない。久しぶりに見たアンジェラ・アキと同様、久しぶりにこのようなことを考えた。

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手紙~拝啓 十五の君へ