溜め息すら出すのもはばかれる美しさだった。それが「Wake Up And Dream」での最後の音が消えた瞬間の単純な感想だった。
そう。非常に美しいライヴだったのだ。確固とした技術と経験に裏打ちされたドラマーとベーシストを従えて、これでもかこれでもかと縦横無尽に鍵盤上を駆け巡る上原ひろみの腕、指、そして時折、ピアノへの情熱を音として表現するだけには飽き足らず、椅子から立ち上がり、全身を使って鍵盤へと思いをぶつけるその姿。それはCDなどの音源ではまったく想像も出来ない、正に「ライヴ」としか言いようのない表現のスタイルであった。
改めて音源を聴き直す。とんでもない。こんなものじゃない。これはあくまでも曲が出来た当時の、CD向けの尺によるパッケージであって、ライヴへの布石でしかないということを思い知らされる。
とにかく圧倒されるのは、パッケージと比較しての音数の多さ。そして楽器との駆け引きの痛快さ。それは彼女を除く2人の抜群の安定感と、彼女のプレイを受け止める抱擁力があってこそ出来るスタイルだと確信しながら、自分はただただその彼女の自在さを眺めているしか出来なかったのだ。
そして明らかに分かること。それはこの場の「ライヴ」を、明日以降同じ会場で聴いたとしても、もう同じ音には絶対に出逢えないだろうということ。その表現はあまりにも生々しく、今日という場でしか立ち会えない音であることを、否応なしに思い知らされるものであった。
「ライヴ」という言葉は「生きる」という意味も持つ。そう、生きる為のエネルギーが舞台の上から迸り、会場全体に渦を巻き、そして聴く者を感動させる。それこそがライヴではないか!
驚くべきはそれがこの3人のみで全て演じられているということ。かぶせ物も同期もなく、ましてやカウントで始まる曲も少なく、全ては上原ひろみのコントロール下に楽曲たちはあったということは敢えて記しておきたい。音源制作時には3人は対等に楽曲制作に臨んでいるというが、ライヴを動かしていたのは全て上原ひろみのピアノだった。
これだけ文字数を稼いでも、まだ何もあのライヴを何も表現しきれていないというもどかしさを今自分は抱えている。そして先に書いたように既存の音源『SPARK』を聴いても、何もかもが物足りないと思っている自分がいる。
上原ひろみを語るならば、まずはその生の音、アンサンブルに触れてからようやくスタート地点に立てる。それだけは間違いなく確信出来た。もしかすると、そのような基本的なことを自分に知らしめさせたのが、今回のライヴでの最大の収穫だったのかもしれない。