シベリウスに続き、ドヴォルザークも古い録音で。
「手垢にまみれた解釈」なるものがどのようなものを指すのか、私には分からない。それは理解しても意味のないことなのではないかと。
歴史的な流れで解釈は変わっていくものであろうし、その時々に存在した指揮者と楽団、録音の数だけの個性があるはずだから。
私がドヴォルザークに求めるのは、おそらく音楽が描く原風景的なものなのだろう。風景を捉える時間帯によってその景色が大きく変化するように、同じスコアであっても、音として起こされるものは異なってくるだろう。
録音が古いからと言って画一に牧歌的なそれを求めようとも思わない。私自身にとって、聴く録音をチョイスするのはその時々の気まぐれによるものが多く、同時にそれは多分に偶発的な巡り合わせなのだ。
このように、クラシック音楽に触れながらのひたすらに私感、自分語りな未明。