クラシック音楽を能動的に聴くことが出来るようになってから、まだ日の浅い私。音を感覚的に捉えることを好む身としては、クラシック音楽に対しても、そのままのスタイルでよいと思っていた時期もあった。
しかし、今ふとこうしてシベリウスを聴いてみると、この音の構成、流れが、何を描画したものなのか、何を表現しているものなのか、知識として持っていることも決して無駄ではないように思い始めた。
一方で、そこに聴覚と脳への刺激を引きずられるのも私の本意ではない。二律背反な思いがある。
目の前に置かれたキャンバスに、シベリウスは何を描こうとしていたのか。そこに思いを巡らせる、シベリウスに自分の感覚を寄せていくことは、決して悪いことではないだろうとも考えるようになってきた。
そこは今後も感覚の紆余曲折を経ていくものなのだろう。
そして現代からするともう遙か昔に演奏、録音された、マゼールとウィーン・フィルによるこのシベリウス。譜面から音を呼び起こす作業は、今とはまた異なった工程を経ていたものなのだろうか。
このように、私自身の感覚をあちらこちらへと飛ばしながら、これを聴いていた次第。午前4時前のシベリウス。