音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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花束を君に / 真夏の通り雨 / 宇多田ヒカル (2016 ハイレゾ 96/24)

宇多田ヒカルが帰ってきた。いや、この2曲を聴いた上で語るならば宇多田ヒカルは再デビューを果たしたと言っても過言ではない。それも、過去を過去のものとして置いてきた、真っさらな新人としての再デビューだ。

ピアノとストリングスを基調とした、柔らかい生音のトラックに、かつてないほどソフトに乗る宇多田ヒカルのボーカル。これまでやや声を絞るようにして高音へと上っていった歌唱法も、今作では喉を絞らず、なだらかに音を上っていく。

トラックも過去に見られたトリッキーな部分、エレクトロとして音を重ねていく要素は影を潜め、楽曲を表現する上での必要最低限の構成と、歌詞の世界観を膨らますためのアレンジが施されている。シンプルに楽曲を盛り上げる。

ボーカルそのものにも慈愛に溢れた柔らかさが伝わってくる(「花束を君に」)。これもかつての宇多田ヒカルにはなかったことだ。それまではどこかに痛さをはらんだボーカルであったものが、今では正に「母の声」と表現してもよいだろう、母性に溢れた女性像がそこにはある。全体を覆う柔らかな空気は過去の宇多田ヒカルでは表現されなかった要素だ。

一方で過去の宇多田ヒカルに欠かせなかった痛さという要素も、やはり柔らかい母性に包まれて、「痛さ」から「哀しさ」に変遷したと見ることが出来る(「真夏の通り雨」)。過去の宇多田ヒカルのマイナーチューンはとにかく痛かった。聴いているといつの間にか心がダウナーに引きずられるような痛みを伴う楽曲が過去の特徴であったはずが、今では人としての「哀しさ」となって表現されている。

再婚、出産を経て、宇多田ヒカルの心境の変化はボーカルとトラック作成にも現われたか。人間活動として休止していた時期に吸収した全ての経験が、この新しい宇多田ヒカルを作り上げたことは間違いない。もしかすると宇多田ヒカルはこの2曲を通して、初めて自分が大人になったことを宣言したのかもしれない。

心の底から思う。このような素敵な歌を手土産に、また歌の舞台へと戻ってきてくれてありがとう。