音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

当コンテンツではアフィリエイト広告を利用しています

シベリウス:交響曲第1番 / パーヴォ・ヤルヴィ, パリ管弦楽団 (2018 DSD64)

第一楽章、いかにもヤルヴィの指揮らしいティンパニの咆吼に対し、ストレートに大地の鳴動を想像させられてみたり。オーケストラをフルレンジに駆使する演奏に一瞬雑味めいたものをおぼえたのも事実なのだけれども、このスケール感で奏でられるシベリウスと言うのもそれはそれで面白いものがあると思い、そのまま再生を続ける。

考えてみると、ここしばらくシベ1を真っ正面にとらえて聴くことがなかったような。骨太かつ肉厚なシベリウスもなかなかに趣がある。ビロード質かつ繊細なそれももちろん精神的なものをかき立てられるのだけれども、演奏対象としてのシベリウスに真っ向勝負で挑んでいるこの音は、鑑賞するための音楽と言った感がある。原色のシベリウス、などと言ったら叱られてしまうだろうか。

クラシック音楽たるもの、その解釈は自由自在であっていいのでは、と。十人十色の演奏と鑑賞スタイルがあり、何も一つの解釈や一つの形、理想像に取り込まれる、とらわれる必要はないのではとも思う次第。

パーヴォ・ヤルヴィに対しては、その自由度の高さを品良く提示する指揮者だとの思いを抱くようになっている。作曲者の念が込められているのが譜面だとするならば、そこから演奏を立ち上げる指揮者の自由度は保障されるものであろうと。そこに自信を持ち、立脚している存在ではないかと。

無論、それまでの指揮者や奏者が築き上げてきたスタイル、古典的なそれは踏まえた上で、パーヴォ・ヤルヴィ自身がどのような色彩を施すか、熟考に熟考を重ねて形にしているのではなかろうかとも思える。聴き手である自分とっては、そこが安心感と新鮮味のハイブリッドとして感じ取れるのだろうと。

久しぶりに聴くことで、様々な考えや想像を巡らせることが出来た。何事もべったりとそこにくっついていてはならないのだな。ましてや自分のように感想が一つ所にとどまることがない、考えにおける浮気性の性分を持った人間においては。

シベリウス:交響曲全集