音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 / スヴャトスラフ・リヒテル, ヘルベルト・フォン・カラヤン, ウィーン交響楽団 (1962/2020 DSD64)

クラシック音楽に傾倒すること10年ほどになる。演奏と自分の感情とを重ね合わせて、ただ自分の勝手な解釈で聴くこと、それもまた10年ほど。そこにある技巧であったり、演出であったり、解釈であったりと言ったものを、知見に基づいた観点で聴くことはほとんどなかった。

その理由は自分が中途半端なクラシック音楽聴きだったからなのかもしれないし、理屈を飛び越えてこの音楽の世界に踏み込んだからなのかもしれない。

一方でそのような土台がなくとも楽しむことが出来る音楽として、自分の中ではポピュラー音楽との区別、差別がなく聴けているのもまた事実。自分の中での理解、解釈で楽しんでもよいのだろうと割り切って聴いている。

そこでしばらくぶりにリヒテルのチャイコフスキー。重い。それは聴くに堪えない重さでは決してなく、音の一つ一つが楔や爪痕となって自分の耳に入り込んでくると言った意味合いにおいての重さ。

ロシア音楽が持つ特有の強靱さであったり、豪奢に通じるかのような華美であったりといった側面を多分に演奏に乗せているリヒテルの響きが、巡り巡って10年経過した自分にまた新鮮に届いてくる。

カラヤンが指揮する歯切れのよいオーケストラと相まって、60年数年前の演奏が現代の演奏との比較においての褪色ですら魅力となり、黴が現れることも、風化に陥ることもなく、一つの決定稿として存在させている。その存在感の強さが、時代を経て「残る」演奏としてしっかと立脚している様に一方的に圧倒される。

圧倒される音楽であることもまた、クラシック音楽の魅力の一つ。ポップスやロックといった刹那の快感とはベクトルが相反する、時間を遙かに越えて今に受け継がれてきた音楽としての彫りの深さの堪能を可能とする。

ここにあるリヒテルとカラヤンの演奏が、21世紀も四半が過ぎようとする今の時代に生きる自分に愛されているその理由は、彼ら音楽家が持っていた譜面への見識と創造力、音楽なる造形物に対する苦愛がそこに花咲いているからなのだろう。

翻って自分が持っているこの見識の浅さは大した問題ではない。琴線に触れる音楽があるからこそ自分がここに居続けるわけであり、その襞を震わせてくれる理由は、そうしてくれる音楽がそこにあるから、ただその一つの理由だけでよい。

チャイコフスキー: ピアノ協奏曲第1番 / ラフマニノフ: 前奏曲集 (SHM-CD)