何度か聴いていたのだけれども、書き記す機会のなかった録音。
ドヴォルザークの偉大なる陰と陽、前者が第9番ならば後者は第8番。後期作品が名曲として認定され、残されていることに異論はない。おおよそ自分が期待している交響曲におけるカタルシスが両者に存在しているので。
ドヴォルザークを聴こうと思い、いつものドゥダメルではなくビシュコフを選択したのには、それなりに理由があるような気もしている。
最新の録音であり、ドゥダメルのそれと比較して明らかに端正寄りの演奏を聴かせてくれるビシュコフとチェコ・フィルの演奏は、派手な装飾を最小限に抑え、ドヴォルザークが持つ美しくも親しみやすい旋律をじっくりと堪能させてくれるからだ。
もちろんそれによってドゥダメルとロサンゼルス・フィルハーモニックの演奏を否定しているわけではない。あちらにはあちらの、こちらにはこちらの魅力があり、それぞれにそれぞれの味わいを見せてくれる。
ドヴォルザークのメロディにある庶民性を心ゆくまで、かつ痛快に楽しむのであれば、断然ドゥダメルの指揮を支持する。庶民性を風土として味わうのであればビシュコフのそれがふさわしいと、少なくとも今は感じている。オーケストラから国民性が失われて久しいとは言われながらも、やはりそれは否定しきれないものがある。その地だからこそ生み出すことの出来る音は、今でも間違いなく存在するはずなのだから。
クラシック音楽を楽しむ上での最大の魅力は、同一作品であっても解釈と演奏の違いによって全く異なる印象を抱くところにある。その振れ幅がたとえ極端なものであっても、また中庸であったとしても、自分自身の耳においてはそれぞれのチャームポイントとして受け入れることが出来ている。鑑賞する上での否定論を持たずに済んでいることは、きっと幸せなことなのだろう。
振れ幅と言う言葉を用いたが、一つの演奏の中での振れ幅と捉えたらそれはどうなるのだろう。
彫りが深いと同時に派手でもある演奏、旋律を重視し同時に流れを重んじる演奏。クラシック音楽が持つ作品内での場面転換の妙は、そのような端的な視点で捉えたとしても、全てにおいて有効に機能してくれるのは言うまでもない。振れ幅は作品を演奏レベルで構築する上での重要な演出なのだから。
ビシュコフの指揮において、その滑らかな振れ幅は意識的な高揚とは異なり、心の中に湧き出ている生命力の奔りを掬い上げる掌めいているかのよう。湧き出ること、流れること、口に含むこと、味わうこと。一連の心の動作を生み出してくれる源、音楽におけるそれなのではないかと。
「なぜあなたは音楽を聴くのですか?」と尋ねられたならば、今の私はおそらくこう答えるのだろう。
「心の動作を自ら作り出すためです」と。
最後に聴いた序曲「自然と人生と愛」は上述の動作において、少しここから遠ざかっていたものを、再び現実に着させるための妙薬として自らの中に響いたことを記しておく。
