音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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Dear Jubilee -RADWIMPS TRIBUTE- / RADWINPS (2025 48/24)

今、世間をザワつかせているRADWIMPSのトリビュートアルバムが極上の作りで、何度も何度も聴いております。

RADWIMPS。このバンドは本当に自分の趣味ではなく、20年間ほとんどスルーしてきたに近いはずなのに、この作品はすんなりと耳に入り、かつ、脳天をかち割られました。

トリビュートアルバムには大抵粗末な曲が存在するものなのに、ここには一曲もそのようなもの存在せず、独立した一枚の完璧なアルバムが成立しています。

もうただただ「すげぇ…」と語彙を失うほど。

これはRADWIMPSファンならずとも心を打ち抜かれるだろうし、世間だってザワつくわけです。

いてもたってもいられなくなりRADWIMPSの原曲も全て聴いてみたのですが、その比較において一層本作が持つ凄まじさ、参加アーティストが原曲を凌駕しなければならないという使命感にも似た悲壮感や愛情をヒシヒシと感じさせられる結果に。

邦楽アルバムでここまでロックな衝撃を受けた記憶は久しくありません。音楽感情動脈硬化を起こしている50代の中年に眠る何かを揺さぶり、無理矢理叩き起こされるかのような衝撃です。

それは自分の中にかつてあった、そして完全に忘れ去られていた、音楽がもたらす衝動が再び掻き立てられ、魂に鞭打たれるかのような感情にも似ています。

青春期に抱いていた音楽と感情のリンク、錆び付いていたそれがまた動き、光り出すかのような感覚とも言えるでしょうか。

アルバムとしての構成も淀みなく美しく、ここに何かしらの黄金律が発動したのではないかとまで思えるほど。

邦楽ロックの括りで抑えつけるなど到底不可能なこの作品は、2000年代の邦楽シーンを振り返る、総括することまで可能にさせるでしょう。

一曲でも気になるアーティストがあれば、是非そこから入ってほしいと切に願います。どこから入っていっても必ず何かしらの、大なり小なり楔を打ち込まれることでしょうから。

(2025.11.26. 某所に記載の上加筆)

Dear Jubilee -RADWIMPS TRIBUTE-

「Don't Let Me Down」 の成長と私の中のセンチメンタル(JITTERIN'JINN / UNLIMITS)

「Don't Let Me Down」

原曲:JITTERIN'JINN 1990年発売シングル「にちようび」カップリング
カバー:UNLIMITS 2014年発売アルバム「アメジスト」収録


(音量差に注意)

仕事からの帰り道、何とはなしにUNLIMITSのアルバムを聴いて行こうと思い立ち、久しぶりにマイナーメロコアパンクを満喫しながら帰宅した。

数年ぶりに聴いたUNLIMITSは、案外と自分の中では整理された郷愁を持って迎え入れられた感がある。何せ自分の人生において最も辛い時期に聴いていた作品たち。聴けば気分がダウナーに引きずられるかとも思ったのだが、そのようなことには一切陥らなかった。むしろ嬉々としてそのメロディやリズムに身を委ねていたのが事実。

家に着く直前に流れてきたのは「Don't Let Me Down」。自分の中では言わずと知れたJITTERIN'JINNのカヴァー曲。夏が終わると同時に終焉を迎える恋の歌。小さく、悲しく、切ないラヴソング。

リリースされた当時から大好きだったこの曲。恋に恋する高校生が、その夢を味わうには十分過ぎるほどに耳にするりと入り込んでいた。

その高校生も今や50代。恋愛が幻想や苦痛を伴うものであると気が付いてから、もう既に相当な時間が経過してしまった。その点においては、通り過ぎた恋に恋する年齢になったとも言えるのだろうか。

夏の終わりの雨、朝焼け。そのような情景の中で恋を思うのはややセンチメンタルが過ぎるかのようにもとらえられるが、おそらくこの感覚は幾つになっても自分の中に残り続けるのだろう。

UNLIMITSによるカヴァーのそれは、よりゴシックな恋を描く。パンクロックをマナーにしているバンドによる演奏であることを差し引いても、線の細いセンチメンタルではなく、過去を引き剥がしかなぐり捨てる現実があるかのような失恋像が見えてくる。

楽曲を作った破矢ジンタが想定していたのは、実際のところいかなる失恋の姿だったのだろうか。もちろんオリジナルの姿が「実像」なのだろう。それでも作品である以上は時代の変化とともにその姿を捉える人の心が変わり、様式が変わり、ロジックも変わっていく。

UNLIMITSが解釈して提示したそれは、時代相応に新たに描き直された強い芯がある。それが現代という名を映した姿なのかもしれない。

果たしてその両者を愛する自分は、楽曲が持つ核にある恋には最早無縁となり、年相応に諸々とくたびれてきた事実がある。それでも先に記したように、自分の中の核にはセンチメンタルである自分を愛おしく思うそれが今でも横たわっている。

恋に恋していた高校生が描いていた失恋の姿と、センチメンタルを愛でることだけが残された50代が思う失恋の姿との間には、絶望的な乖離はあるのだろうか。いや、根底にあるのが自分自身である以上、そこには何かしら相通じるものがあるはずだ。

改めてこの二つを聴くことに専念してみる。するとここにあるギャップの中には成長の二文字が見えてきた。こんな小さな曲にも胚芽は眠っていた。そして時間を掛けて私のような者に愛され、知らずうちに水を与えられていた。UNLIMITSはその芽を出すことに成功した。すなわち楽曲が成長したのだと。

成長であればその前後は結ばれる。通じている。自分は一体の人間なのだ。あの時と今に乖離があろうとも、繋がっている事実は疑いようがない。軽い嘲笑が浮かぶ。楽曲一つで恋愛に対するセンチメンタルな感情が掘り起こされるのだ。いつまでもここには高校生時分の私がいる。

あれから35年。私は間違いなく私であって、今でもこうして楽曲に揺さぶられている。恋愛感情はどこかで失ってしまったが、センチメンタルな感情はいつまでも持ち続けている。そのことを思い出させてくれた楽曲にもう少し浸ることとする。

このところちょっと(20250811)

0.
ただ今、午前3:45です。

1.
10連休の夏季休暇7日目もこんな時間です。6日目が終日雨だったこともあり、一日中部屋の中に引きこもって音楽物の動画やBlu-rayを観ておりました。このような日があると、部屋に50インチのテレビを配置してよかったと思うのです。それ以外の日はただのインテリアと化しているのですがね。

2.
なにせ午前中からずっと観ていましたから、何を観たっけ?状態で。

そうそう、まずはルツェルン祝祭管弦楽団のマーラー第7番を。アバド指揮の演奏ですね。Blu-rayで。

音源だけで聴くとやはり難解にも捉えられる作品ですが、映像を伴うことで格段に理解が深まります。「こんな楽器を使っていたのか!」やら「なにこのオーラスのオーケストラヒット状態!」等々。驚きや再発見満載。

第一楽章では時折首を横に振っていた、演奏の感情表現ではないものと捉えられる仕草があったのですが、第二楽章以降はとにかくニコニコと好々爺状態でタクトを振るアバド。今この演奏を作り上げていることが心の底から楽しい、充足している状態なのだろうなと、観ているこちらも喜ばしく思えてくるほど。

それはもちろん表情だけの満足感だけではなく、演奏面でのカタルシスが十分に存在していたことにも現れているのではないかと。一度観ただけでこの作品への理解がぐっと深まったようにも思えるほどでした。より一層マーラーの第5番から第7番への流れが好きになりました。

カット割りも非常に丁寧でしたね。それもあって目が離せない映像パッケージになっていたように感じられました。

3.
昼食と椅子の上昼寝を挟んでプラットフォームをYouTubeへ移しました。

まだ観ていないデラックス×デラックス関連の動画を片っ端から3時間ほど。普段、バラエティ番組はまず選ばない自分なのですが、デラックス×デラックスが出演しているそれもあわせてとにかく片っ端から。

3時間観ての結論、やっぱりこのバンドには大物になる予感しかない、と。ドームクラスになるにはまだ時間も実力もこれからのラッキー要素も必要になってくるだろうけれども、案外ホールクラスになるにはあと3年もあれば十分では?と思えますね。

その基となる根拠があるわけではないのですが、自分の勘と音楽鑑賞の経験がそう言っているので、自分のそれに意見を従わせるのみなのであります。

バラエティやラジオ番組でのあしらい方や、ライヴ映像での客の煽り方と見せ方、そしてこれまでリリースしてきた2枚のアルバムのその充実度の高さ。

なぜかこれまでYouTubeリンクの類いは滅多に張らない自分ですが、この流れならばこれを。

楽曲のパワーや説得力が伝わる、好MVではないかと。こんなカヴァーを持っている、作れるほどなのだから、やはり大きくなるポテンシャルはあると確信、そう、自分は確信してますね。

4.
今さらながらBLUE NOTE TOKYOの公式チャンネルがあることを知り、登録した後に動画をいくつかつまみ食い。去年生で観たアヴィシャイ・コーエンの演奏、やはりドラムの尖った女の子の存在感が格好良いな、と。

5.
その他、YOASOBIの出演フェス映像を観ては、この人達はここ1~2年ほどでロックとの親和性がぐっと深まったと実感させてられてみる。モッシュピットやサークルピット、ダイヴやオイコールが何の違和感もなく楽曲に溶け込んでおりました。

6.
流れで民謡クルセイダーズの映像を2時間ほど。何年もそこはかとなく気になっていたグループなのですが、今回ようやく本腰を入れて聴くことが出来ました。

こりゃすごい。あの民謡この民謡、有名どころがすっかりラテンに換骨奪胎されている。それでいながらボーカルがしっかりと民謡しているので、自分にとっては違和感なく楽しむことが出来ました。どうして今まで自分はこれを放っておいたのかと。

日本の市井におけるイベントであっても、海外の大掛かりなイベントであっても、とにかく安定した民謡愛とハッピーさがあふれている。民謡には日常生活の苦悩から解放される目的もあり、今日まで歌い伝えられてきた日本の重要な文化だと思っているのだけれども、そこから幸福感をピックアップして増大させた感覚が素晴らしい。

このグループは絶対に生で観るべき。機会があれば絶対観に行きます。うん。

7.
いやー、YouTubeってすごいメディアですね。何を今さらと思うかもしれませんが、動画界隈にはほとんどノータッチだった人間なもので。昔のYouTubeってのは(以下略

8.
録りだめしていたnasneの中身から、Penthouseのパシフィコ横浜公演を。

この若さが素晴らしい。その一言に尽きるかしら。テクニカルな要素は確かに多いのだけれども、それはエッセンスとしておきながらポップスに昇華させているところが素晴らしいと。

かてぃんというスーパースターを擁しながらも、バンドメンバーとして溶け込ませている、溶け込んでいるところのキャラクタのバランス感覚も素敵ではないかと。

基本的にハッピーになれるライヴとして仕上げているところも、今後の更なる成長が期待出来るかと。今後もさり気なくマークしておきます。

9.
続いてL'Arc~en~Cielのhyde生誕祭を。

演奏やら演出やらにおいてはもうそこはベテランバンドですから、何も心配することなく観ていたのです。hydeのお茶目さも含めて。

ラルクの映像物を観る度に「俺、生まれ変わったらhydeになるんだ…」と思うのですが、なれないなーと決定的に思わされるところが一点。hydeの何が悔しいって、何気にかわいい素振りや言葉を平気で発するところなのですよ。自分が女性ならばこれはメロメロにさせられるポイント。

映像カットでもとにかく笑顔だったり、ハンカチを目に当てているシーンが何度も。女性ファンにとってのhydeがどう映っているかとは、もうそれが全てを語っているのではないかと。

hyde完全プロデュースということもあり、選曲は見事。実にツボを押さえた内容になっておりました。

こんな感じで書いております

10.
これを書きながら「ダイナミック琉球」の原曲を聴きたいがために、Spotifyでイクマあきらのそれを再生しようとしたら、うっかり爆裂大音量で再生。おい、朝の5時前だぞと。完全に室内放送事故。

気を取り直して再生してみると、やはり原曲からして名曲ではないかと。カヴァーが数多あることにも驚き。いかにこの曲が愛されているか、それを今まで知らずにいたかですね。それらも片っ端から聴いていったのですが、どのカヴァーにも楽曲愛が伝わってきて、終始うるうるしておりました。この曲には涙腺を緩ませる何かがある。

こんなプレイリストがあるほどだものね。

でもまだこのリストにデラックス×デラックスのそれが加わっていなかった。このプレイリストの作成者さん、デラックス×デラックスヴァージョンも入れてアップデートしてくれないかな…。

12.
ただ今、午前5:13です。朝ですよ、朝。まぁ、いいか。次は何を観ようか。

13.
そんなこんなで。

SINGER9 / 島津亜矢 (2025 44.1/16)

誰が名付けたか「歌怪獣」島津亜矢。かつてNHKの歌番組で見事な歌謡浪曲を披露していたあの方が、まさかここまでポップミュージックカヴァーアルバムの数を重ねるとは、一体誰があの時予想出来ただろうか。と言うことで、好評「Singer」シリーズ第9弾。足かけ15年で9枚目ですって。

内容はもう盤石の島津節。すなわち曲によってボーカルの色合いを大きく変え、オリジナル楽曲に大きく寄せながらもその歌は他ならぬ彼女自身といった、とにかくぶっとい芯が通りまくっている。

洋邦新旧問わず、どのような観点で選曲されたかはともかくも、片っ端から歌いこなして自分のモノにしているあたりは、ありとあらゆる楽曲を食べ尽くす歌怪獣であるがゆえんか。初めてこのシリーズに耳を通す方は、その大食らいっぷりに仰天するに違いない。この方にとっては毎度のことですがね。

その中で個人的な白眉は「朝日楼(朝日のあたる家)」。名だたる数々のシンガーが取り組んでいる、実に挑戦しがいのあるこの曲のカヴァーに島津亜矢も続いた形。そしてその内容がこれまた本当に素晴らしく。ブルージーに、渾身の力を振り絞って歌いきる。

ああ、そうだった。自分がこの方に魅せられたのは、この、歌における見事な演技力、テレビで披露していた歌謡浪曲のカヴァーがきっかけだったのだと、ここに来て改めて。

元来が普通に歌える曲ではないと常々思ってはいたのですが、それにしても島津亜矢の歌いっぷりに対して見事としか言いようがないのもまた事実。この曲を聴いてしまったら他の収録曲は余力で歌っているのではないとまで思えてくるのだから、本当に恐ろしいお方ですよ。

同着1位で白眉だと感じたのが中島みゆきのカヴァー「歌姫」。これまた演技技巧派な歌唱で静かに迫り、ぐっと泣かせてくれる。夜中にアルコールを入れながらこれを聴いたら、本当に声を上げてダクダクと泣いてしまうだろう。オリジナルの中島みゆきとは全く異なるベクトルであっても、ここまで泣かせにかかるのは、島津亜矢が歌における言霊を持つ人である方であるからだろうか。

総じて。徹頭徹尾歌い手であることに終始し、そのプロフェッショナルぶりに感服させられることしばし。やはりこの方にとって「歌怪獣」の二つ名は正しいものであるなと。

SINGER9 - 島津亜矢

以下、蛇足。

島津亜矢という歌い手がどこまでこのカヴァーシリーズに力を入れているか、その実がよく分かるサイトはこちら。何の変哲のないアルバム紹介ページに見えますが、通常の演歌歌手のサイトでは特定のシリーズだけを独立させた作りにはそう滅多にしないのです。大抵リリース順に全アルバムを羅列するだけ。
www.shimazu-aya-koenkai.com

しかし改めてこうやって眺めると、本当に歌ったりも歌ったり、ですな。今後もまだまだ枚数を重ねていくのでしょうな。もちろん私はそこに大いに期待しているのであります。

超重ギガ / デラックス×デラックス (2025 48/24)

ダイナミックさも切なさも踊りっぷりまでもが超重力級。スケール感が全方位的にギガアップした作品に仕上がっていることにとにかく驚かされた。その勢いにノックアウトを喰らい、半日で3回も繰り返し聴いてしまったほど。

前作『千紫万紅』から約2年のインターバル。その間のライヴで着実に人気も実力もスケールアップしていることはSNSから察していたのだけれども、それにしても最新作である本アルバムに落とし込まれた熱量は半端ではない。いや、ここにパッケージしきれなかっただろう猛烈なエネルギーが、音の外へとほとばしっているとまで感じ取れる。

通して作品を聴くことですぐに把握出来るのが、その挑戦的な曲順。涙腺を攻撃するかのごとく楽曲を前半に配置し、その後にド迫力のデラデラショーがこれでもかこれでもかと繰り広げられる。バンドが自信に満ちていないと、この曲順でのプレゼンはなかなかに難しいはず。熱のこもったパンチだけがデラデラの魅力ではないと、大胆なまでに冒頭から提示している。

それにしてもこの演奏とボーカルのノリの良さはあっぱれ。確かに前作においてもアグレッシヴなそれは明らかであったけれども、今作は比較対象が間違っているのではないかと思えるほどにとにかく詰まっている。演奏のヘヴィネスは増加した体重の総重量以上にマシマシになっている。実にハイカロリー。

デラデラの魅力、その一端でもあるカヴァー楽曲も実に攻めまくり。それは反則でしょう?と唸らざるを得ないこれまたベタな選曲とその根っこにあるサービス精神と痛快さ。ライヴ映えしなければ嘘だろうと納得させられるヒネリが加えられ、これはライヴでの楽しみが増えるだろうと。期待が実に高まる。

オリジナル楽曲ももちろんバラエティ豊かに、デラデラでしか成立しないだろう楽曲が並ぶ。キャッチー、ダンサブル、それでいてぐっと泣かせるものまで、よりどりみどり取り揃えてきた。一回聴くだけで耳に入ってしまいそうなメロディの作りの素晴らしさ。ツボを押さえたソングライディングが出来る、バンドとしての強み。見事としか言いようがない。

まだまだ聴き込めば聴き込むほどに旨味もエグミもあふれ出てくる鳥獣戯画の無間地獄。さすがにお腹一杯。でも何杯でもおかわりしてしまうこのスパイシーさ。耐久性の強い、クセもアクも強過ぎる、何よりもオリジナルテイストが抜群に効いている作品を頂きました。でもごちそうさまとはまだ言わないよ。まだまだ喰らうよ。

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そんなこんなで生のデラデラショーを近々初体験、堪能してまいります。そのために半休を取ったのです。これほどまでの作品を作り上げたのだから、ライヴで期待を裏切られることはまずないでしょう。楽しみにしています。汗だくになって歌って踊ってきます。

超重ギガ

中森明菜 Tribute Album “明響” / V.A. (2025 48/24)

これはいいトリビュート。

何よりも中森明菜作品に対するリスペクト精神と、オリジナルの世界観をいかにして換骨奪胎して自らのものとして取り込んだ上で、大胆にアウトプットするかといったアイディアに満ちあふれている。

この手のアルバムになると、楽曲毎にある程度の出来不出来、もしくは得手不得手の差が現れるものなのだけれども、今作に限ってはクリエイターとシンガーとのやる気が空回りせず、高い完成度を誇る中森明菜作品をものにすることに見事に成功している。

無論楽曲間の小粒大粒の差はあれど、この聴き応えがあれば、それすらも気にならないというもの。「これはイマイチ」とガッカリさせられるものが存在しないことが奇跡的ではないかと。

以下、どの曲にも聴き所があるので、全曲を簡単にレビュー。

玉井詩織「スローモーション」
本作唯一の現役アイドルによる歌唱。アイドルであることを武器にして、オリジナルリスペクトのアレンジに透明感ある世界を映し出している。

城田優「少女A」
男性ボーカルであることと、トラックをゼロベースで作り上げていることで、原曲が持っていた鋭さに対して別角度から光を当てているかのよう。

土岐麻子「セカンド・ラブ」
オリジナルのはかなさを大人の気怠さに置き換えてしっとりと歌い上げている。オリジナルのアレンジではやや重くなるところを、適度にライトにリアレンジ。

GYUBIN「トワイライト-夕暮れ便り-」
K-POPボーカリストによるカヴァー。本作の並びではやや異端であるようにも見受けられるが、実にオーソドックスに世界を再構築している。

一青窈「北ウイング」
100%の一青窈節に置き換えてのプレゼン。この人ならばここまでやらなければ嘘だろうと思わせる説得力は、本作において強力なインパクトを持って受けいれられた。

玉置浩二「サザン・ウインド」
作曲者本人によるセルフカヴァー。その時点で反則。もとい、リアルタイムではあまり感じていなかったのだが、こうやって新たに触れると、確かに氏のメロディであることよ、と納得させられる。

Ado「十戒 (1984)」
本作の中ではオーソドックスなカヴァーの一つ。飛ぶ鳥を落とす勢いの現代のシンガーが中森明菜をカヴァーすること自体に意味があるのだと思い知らされる。

鈴木雅之「飾りじゃないのよ涙は」
個人的に一発で打ちのめされたアレンジ。氏のワールドとパワー全開。譜割りもがらっと置き換え、J-POP界随一のボーカリストによって実にイカしたダンスナンバーとして提供されている。

CHEMISTRY「ミ・アモーレ」
原曲とは異なるベクトルでのスケール感を持ったビッグバンドアレンジに乗って、2人のボーカルが、実に丁寧に歌い重ねられている。

JUJU「DESIRE -情熱-」
カヴァーならお手のものによる彼女のボーカル。原曲重視のアレンジとの相乗効果で、オリジナルが持つロック感と現代のボーカリストによる共存が、安定感を持った意図で組み立てられている。

East Of Eden「TANGO NOIR」
メンバーによるヴァイオリンが縦横無尽に駆け巡る作風に。タンゴのサウンドを代表するバンドネオンが、まるでジプシー・ヴァイオリンに置き換えられているかのよう。バンドサウンドとしても楽しめる。

中島美嘉「難破船」
彼女の持つウェットなボーカルスタイルが、原曲のイメージをほうふつさせながらも、この絶望的な失恋歌を、中森明菜が持っていた救いのなさとは異なる、どこか一縷の望みを持つ世界観にしている様は見事。

星屑スキャット「TATOO」
スッキリとシャープなダンストラックに置き換えたカヴァー。なるほど確かにこの曲はオシャレな側面も持ち合わせていた、と再発見させてもらえる。本アルバムの中で最も現代的なアレンジとも言える。

このような具合に、聴き所満載であります。この5月は本作をえらく愛聴しておりました。ノスタルジックでありながらも、リアル。このギャップを完全に埋めにきた、素晴らしいトリビュートアルバムです。

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水響曲 第二楽章 / 斉藤由貴 (2025 96/24 Qobuz)

歌を演じると言う行為はいつからか歌唱力なる言葉に全て置き換えられて消えてしまった。

そのようなことを考えながら、この斉藤由貴と武部聡志のタッグによるセルフカヴァー企画第二弾を数回聴いた。

歌唱に演技を乗せ、曲の世界観を広げる。70年代から80年代にかけての、それは現在の「シンガー」とはまた異なる意味において、「歌手」における歌唱力は演技と同等の位置にあったように思われる。

歌に感情を込める上での演技は、確かに今となってはクサい。だが楽曲におけるアクセントとして存在するそれを、クサいの一言で無下に否定する必要もないだろう。

歌手業と俳優業の両立が成り立っていたこの時代において、その二者には共通項が多い。斉藤由貴が2020年代の今に歌における演技を否定せず、むしろ積極的に取り入れていることには、現在のシンガーとは異なるアプローチに臨んでの意気込みのようなものもあるのだろう。

収録されている曲の多くが10代の頃の作品であることを考えると、年を重ねることにより、歌うことにおける余力が生まれていることも挙げられるだろう。楽曲に対する俯瞰力が備わったことにより、自身のかつての作品においての彩りをプロデュースし、そして先に書いた演技のアクセントやポイント、その質と量をコントロールしているようにも思われる。

そのようなことをアルバムの冒頭三曲において、じっくりと考えさせてもらった。

以降、M-4「予感」はストリングスがオリジナル楽曲に忠実に奏でられていることもあり、武部聡志が当時のアレンジに相当な自信を持っていることがうかがえる。ボーカルも実にシンプルに、この楽曲が持っているピュアネス、透明感をトレースしているかのような世界を味わうことが出来る。

一転しての「夢の中へ」はリアルタイムで聴いていた自分自身が、斉藤由貴に接することから離脱した一撃になっていた曲。それをアコースティックなこのアルバムに収録することで、実際のところは井上陽水が持っているアーティスティックな要素を、アイドルの楽曲として調理することに大胆に挑んでいたものであると、今だからこそ理解させてもらえた。アルバムにおけるアクセントとしても十分に機能している。

ここまでがある種のパビリオン的な存在感をもたらしているとするのならば、後半の「ORACION-祈り-」以降の流れは、本作における良心、今現在の斉藤由貴が保ち続けている透明性による、本シリーズの本質を突く流れであると言えよう。

その流れにおけるトリの二曲「卒業」「家族の食卓」は、斉藤由貴のA面とB面、表裏の象徴となっている。

最もパブリックイメージに近いであろう「卒業」は、高校生のコーラスに乗せて歌うことで、楽曲が持つエヴァーグリーンな色合いを今に美しく再生させている。多くの人がイメージするであろう斉藤由貴像を決して崩すことなく、今でもその核はここにあるのだと柔らかく訴えかけているかのよう。

「家族の食卓」は斉藤由貴ファンの間では言わずと知れた名曲。ごくごくシンプルに夕餉の光景を歌うこの曲の、装飾を極限までに削ぎ落とした世界観は、アルバムの大トリとして存在するにふさわしい。

演技と歌が冒頭のテーマであるとするならば、暖かみを帯びたクリスタル彫刻を配置することが後半のそれであると言えるだろう。その彫刻は複製を行った絵画を立体化させるかのごとく、オリジナルのイメージを損なわず、かつ、新たに息を吹き込む行為によって起こされたもの。

振り返ってみると斉藤由貴の歌手としての最盛期はそれほど長いものではない。従って楽曲数も限られては来るのだが、そこに込められた作家陣による熱量と斉藤由貴自身の歌に対するひたむきさを今に問う作品として、また、風化されずに40年近い時間を経て熟成された楽曲の妙を味わうためのものとして、本シリーズの機能性は高いものであると再確認した次第。

水響曲 第二楽章 [通常盤] [CD]

THE HIT PARADE Ⅱ / TAK MATSUMOTO (2024 Spotify)

B'zギタリストTAK MATSUMOTO(松本孝弘)による21年ぶりのカヴァーアルバム第2弾。

前作は当時ビーイングに所属していたシンガーをメインにフィーチャー、フックアップしていたのに対し、今作では幅広いシンガー、ボーカリストを大々的に迎えての豪華絢爛な一枚に。

今作を制作するにあたって松本孝弘が相当に意欲的であるのだろうと思われるのは、そのサウンドプロダクションを聞いても明らかなこと。気合いの入り方が全く異なり、ギタープレイも、トラックメイキングにもかなり力が入っております。

選曲のレンジが広いのも今作の特徴かと。

オープナーの「六本木心中」でLiSAが時折ドスを効かせて景気よくロックにぶち上げると、GRe4N BOYZがトレードマークであるボーカルワークを見せての「木蘭の涙」を決め、TERU(GLAY)は吉田拓郎の名曲「落葉」を原曲よりも彩度を持たせて歌い上げる。ここまでで個人的にはもう十分すぎるほど。そこで休ませるようなことはなく、稲葉浩志によるねちっこい「銃爪」まで一気にたたみかけると、ようやくここからがメロウモード兼ビーイングゾーン。

とは言ってもそこで耳を休ませてくれるようなことは全くなく、これまた相当な哀愁感と若さで聴かせてくれる「Yes-No」、21年前の背伸び感からは断然大人になったボーカルで魅せる倉木麻衣による「ブルーライト・ヨコハマ」、コーラスワークが曲の美しさを際立たせる「白い冬」、キザに決めたボーカルの中にスケールの大きさを堪能できる上原大史(WANDS)の「時の過ぎゆくままに」、そして新浜レオンによるどハマりな「傷だらけのローラ」と、これでもかとたたみかけられるのであります。

シメは松本孝弘によるギターインスト「俺たちの勲章テーマ」。そしてここでまた気付かされるのです。このアルバムにある統一感、それは間違いなくこの人のこのギターの音によるものであると。

自分自身が松本孝弘のギターに慣れ親しんでいることもありますが、それと同時にギタリストが邦楽カヴァーアルバムを出すことには当然理由があり、楽曲たちへのリスペクト精神はもちろんのこと、それらをモチーフに自分の音を響かせたい、聴かせたいというプレイヤーとしての強い欲、モチベーションがあるからなのでしょう。

ここまで書いて残りで貶すなど、そんな野蛮なことをするつもりは毛頭ありません。このアルバムを完全に万歳ポーズで受け入れている自分がおりますが故。本当に松本孝弘な作品ですよ、これ。

『THE HIT PARADE Ⅱ』 (通常盤) [CD]

The Golden Oldies / 福山雅治 (2002 44.1/16)

このアルバムからもう22年も経ったのですか。

その22年の間でJ-POPを取り巻く事情も大きく変わり、楽曲はより短く、より強い瞬発力でリスナーに訴えかけられるようになった。前奏がなくなり、間奏がなくなり、後奏もなくなり、巷に溢れる曲の多くは3分台にまで短くなった。

3分台のポップスはそれこそ80年代半ば頃までの主流。大きく変わったように見えて、実のところどこか先祖返りをしている側面もあるのかもしれない。

何気なくこのアルバムを聴き返しながら、この時期に始まったカヴァーブームはその古き短き昭和時代のポップスへの回帰や、ある種のノスタルジーと憧憬のようなものが根底にあったのだと再認識させられる。

時は変わって現代。シティ・ポップが脚光を浴び、形を変えてはいるもののやはりそこには昭和の時代が有していた独特の煌めきや文脈、楽曲に根ざす文化のようなものに対する再発見があることは間違いなく。

あの時代、22年前に発売されたこのアルバムは、やはりそれと同様のあの時代、昭和の楽曲を利用した、今の時代にあっても繋がっているだろうスタンダードナンバーの持つ豊穣なるメロディを再認識、再確認するための通過儀礼のようなものなのだろうと思うに至った次第。

世代が変われば通過儀礼もまたその都度行われるもの。平成時代のカヴァーも、令和の今のカヴァーも、その根底にある意識には大きく変わるものはないのだろう。

The Golden Oldies