音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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水響曲 第二楽章 / 斉藤由貴 (2025 96/24 Qobuz)

歌を演じると言う行為はいつからか歌唱力なる言葉に全て置き換えられて消えてしまった。

そのようなことを考えながら、この斉藤由貴と武部聡志のタッグによるセルフカヴァー企画第二弾を数回聴いた。

歌唱に演技を乗せ、曲の世界観を広げる。70年代から80年代にかけての、それは現在の「シンガー」とはまた異なる意味において、「歌手」における歌唱力は演技と同等の位置にあったように思われる。

歌に感情を込める上での演技は、確かに今となってはクサい。だが楽曲におけるアクセントとして存在するそれを、クサいの一言で無下に否定する必要もないだろう。

歌手業と俳優業の両立が成り立っていたこの時代において、その二者には共通項が多い。斉藤由貴が2020年代の今に歌における演技を否定せず、むしろ積極的に取り入れていることには、現在のシンガーとは異なるアプローチに臨んでの意気込みのようなものもあるのだろう。

収録されている曲の多くが10代の頃の作品であることを考えると、年を重ねることにより、歌うことにおける余力が生まれていることも挙げられるだろう。楽曲に対する俯瞰力が備わったことにより、自身のかつての作品においての彩りをプロデュースし、そして先に書いた演技のアクセントやポイント、その質と量をコントロールしているようにも思われる。

そのようなことをアルバムの冒頭三曲において、じっくりと考えさせてもらった。

以降、M-4「予感」はストリングスがオリジナル楽曲に忠実に奏でられていることもあり、武部聡志が当時のアレンジに相当な自信を持っていることがうかがえる。ボーカルも実にシンプルに、この楽曲が持っているピュアネス、透明感をトレースしているかのような世界を味わうことが出来る。

一転しての「夢の中へ」はリアルタイムで聴いていた自分自身が、斉藤由貴に接することから離脱した一撃になっていた曲。それをアコースティックなこのアルバムに収録することで、実際のところは井上陽水が持っているアーティスティックな要素を、アイドルの楽曲として調理することに大胆に挑んでいたものであると、今だからこそ理解させてもらえた。アルバムにおけるアクセントとしても十分に機能している。

ここまでがある種のパビリオン的な存在感をもたらしているとするのならば、後半の「ORACION-祈り-」以降の流れは、本作における良心、今現在の斉藤由貴が保ち続けている透明性による、本シリーズの本質を突く流れであると言えよう。

その流れにおけるトリの二曲「卒業」「家族の食卓」は、斉藤由貴のA面とB面、表裏の象徴となっている。

最もパブリックイメージに近いであろう「卒業」は、高校生のコーラスに乗せて歌うことで、楽曲が持つエヴァーグリーンな色合いを今に美しく再生させている。多くの人がイメージするであろう斉藤由貴像を決して崩すことなく、今でもその核はここにあるのだと柔らかく訴えかけているかのよう。

「家族の食卓」は斉藤由貴ファンの間では言わずと知れた名曲。ごくごくシンプルに夕餉の光景を歌うこの曲の、装飾を極限までに削ぎ落とした世界観は、アルバムの大トリとして存在するにふさわしい。

演技と歌が冒頭のテーマであるとするならば、暖かみを帯びたクリスタル彫刻を配置することが後半のそれであると言えるだろう。その彫刻は複製を行った絵画を立体化させるかのごとく、オリジナルのイメージを損なわず、かつ、新たに息を吹き込む行為によって起こされたもの。

振り返ってみると斉藤由貴の歌手としての最盛期はそれほど長いものではない。従って楽曲数も限られては来るのだが、そこに込められた作家陣による熱量と斉藤由貴自身の歌に対するひたむきさを今に問う作品として、また、風化されずに40年近い時間を経て熟成された楽曲の妙を味わうためのものとして、本シリーズの機能性は高いものであると再確認した次第。

水響曲 第二楽章 [通常盤] [CD]