「日はまた昇る」
シベリウス第5番の最終楽章とはそう言うものではないかと。
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60年近くも前のこの録音を聴いていると、「クラシック音楽の正解とは何か?」と深く考えさせられてしまう。録音技術が進化し、演奏をパッケージすることが普遍的になって以降、様々な手本や、そこから派生・発展する、もしくは真新しい解釈を生み出すことの自由さが増しているのだろうが、その現代的源流に近い所まで遡ることが自在になっているのも事実。
今、数多の新解釈に触れることが出来る中で、古い演奏が決して色褪せない、黴臭くならない理由は何であろうか、ともまた考えさせられる。
もちろんクラシック音楽が持つ長い歴史の中で「型」は完成されているのだろうが、どこかのタイミングで今に一番近い所にある「型」もまた作られているのだろうと。
シベリウスを演奏する上での「型」もこの辺にあるのかもしれないな、などと思いながら。時代を射抜いた嚆矢、その一つがこれではないかと。
バルビローリのこれを聴いている最中に、ふとそのようなよしなし事に思いふけった次第。