音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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ベートーヴェン:交響曲第3番~第6番 / レナード・バーンスタイン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1980/2020 192/24)

バーンスタインによるベートーヴェンの交響曲をこれまで聴いてこなかった。本全集がHDtracksでディスカウントされていたこともあって、ひょいっと購入。とりあえずの所を聴いてみた。以下、そのインプレッション。

バーンスタインはどこにも属していないかのように聞こえてくるから面白い。属性の色味に「その前の時代」にあった、落とされた影が感じられない。かと言って「何か強烈な毒を持った個性」とも異なる。音楽としての間口はむしろ広く、明瞭なベートーヴェンだ。

しかしながら間口も懐も広くとも、その実、どこかつかみ所のない、飄々とした雰囲気さえ漂ってくるように感じられるのは、聴き手である自分の経験値不足によるものなのか。それともバーンスタインが「そう言った存在」なのか。

聞こえてくる演奏も、指揮者の強烈な支配によってオーケストラを牽引しているものとも異なるように思える。だからと言って好き勝手自由に歌わせているわけでももちろんない。

言うならば「どこ吹く風」の演奏か。バーンスタインの中にはもちろん確固とした演奏像があるのだろう。しかしながらそれを押しつけるような音の仕草が少ない。それもあってこちらとしては現れた音を素直に受け止めることが出来るのだ。それと同時に、聴き所の間違いのない土台や足場がないように感じられ、ぽーんと放り出されてしまう印象も受けるのだから、なかなかにたちが悪い。

ただ一つ、鍵になりそうな印象を受けたポイントがある。例えば第5番の冒頭。あの強烈なフレーズの芯が、バーンスタインの手にかかると「そこは全てではない」と説かれているかのように聞こえてくる。ある意味において淡々と、本来の主題は後にあるといなされているかのよう。

そして場が転じて明るさに弾ける瞬間、その瞬発力の源に生命の喜びが満ちあふれているかのごとく、音に宿る歓喜の感情が爆発する。ベートーヴェンは苦悩ではない、解放である、と訴え説かれているような気にも。

そのように考えていくと、後々の新たなベートーヴェン解釈に繋がる糸口を持って、これら演奏に臨んだかのようにも思えてくるから興味深い。重厚長大なベートーヴェンは過去のものであり、歓喜にこそその本質がある。バーンスタインはそのようにベートーヴェンの音を後世に誘導し、その演奏の筋道を照らし出したかのように思えるのだ。

「それ以前」を考えると放り出された感があったが、「それ以降」のマイルストーン的役割であったと思えば、合点もするし納得も行く。バーンスタインのベートーヴェン、まだまだつまみ聴きの段階だと言うのに、なかなかに手強い感がありますな。面白い。

9 Symphonies -CD+Blry-