ありったけの物量投入。それでいて滑らか。これは面白いマーラーの第6番だわ。
ヤルヴィが交響曲を手がけると、どこかビロードライクな滑らかさと艶やかさが浮き彫りにされるような気がするのよね。それが「新しい」と解釈されるのかもしれないけれども。それはN響であっても、カンマーフィルであっても、共通して何かヤルヴィ印のような「目が覚めるような」演奏を導き出すように思えるのでありますよ。
何かこれまで聴いていたマーラーとは異なる明るさ、華やかさも兼ね備えたような。やはりそれは「新解釈」と称されるようなものなのかもしれないな、などと思ってみたりもして。
そう言う意味では、パリ管で見せつけたシベリウスにも似た、低奏でつながる共通項のようなものがあるように思えてならないのだよね。ヤルヴィという根底とでも言えばいいかしら。