音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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夜にブログを思う

ジンマン&チューリッヒ・トーンハレ管によるマーラー第7番《夜の歌》を流しながらつらつらと。

ブログという媒体はすっかり枯れた存在になったのだな。

とは、先日、鉄道好きな友人と会話をしていて思ったこと。

それまでブログ上で鉄道に関する様々な情報を発信していた企業も個人も、みないつの間にかSNS、主としてTwitterに移行してしまったと口にしていた。

もちろんTwitterにはTwitterのメリットがあり、フォローさえしていればアプリを起動することでいつでも、発信された最新情報を集約的に得ることができる。

「ブログってもう終わったのかな」

自らの発信は行っていないその友人の一言は、自分の胸に大きく刺さった。

ブログと言う名の日記を書き綴ってかれこれ15年以上。一時はTwitterに傾いたこともあるが、それによってブログの更新を止めたことはなかった。

ブログというツールは、文字数にも制限されず、自分が発信したい情報を何の制約もなしに書くことが出来る。リツイート、いいね。そういった外野からのノイズを受けることも少ない。アーティクルへの目に見える反応もほぼ無い。まさに自由なフィールドだ。

それは自分のブログが他者の役には立たない内容を綴っているものである以上、当然のことと言えば当然のことなのだが、この「誰にも邪魔されずに自分を発信できるツール」の存在は大きい。

人のウケ、顔色、リアクションを伺う行為が、自分の発信のバイアスになってしまうことも知っている。それは前述の一時傾倒したTwitterを使うことで、痛いくらいに実感した。自分にとってそれは百害あって一利なしの存在だったのだ。

思えばブログに関しては、アクセス数なるものに対しての興味がほとんどなかった(と記憶している)ことが幸いしてなのか、本当にのほほんとこれまで続けることが出来た。

ブログ書きにとってそれは大きな欠落なのかもしれない。自らを発信すると言う行為がブログの本質であるならば、より多くの人の目に止まるようなアーティクルを書き綴ることが、ブログを書くことの意味であるのかもしれない。

だがそれは自分には必要のないこと。自分はブログを書いているわけではなく、ブログというツールを利用して、自らを発信しているだけのこと。プラットフォームに乗っかっているだけの話なのだ。

話が大きく脱線した気がする。

ツールが枯れることは悪いことではない。その分だけ安定したサービス提供が出来ることにもつながる。ここでのサービスとは情報発信とイコールである。

枯れたツールで安定した発信行為をする。なんて盤石なのだろう。

Webにおいてツールは移ろうもの。しかしブログと言う、形があってないようなツールは、まだまだ生き残って行けるように思える。枯れ具合がいいではないか。まだまだ多くの人がこのツールを使って自らを発信し続けている。人が枯れたわけではないのだ。何も「枯渇」はしていない。リソースがそこにまだある以上、ツールもまた生き残っていけるもの。

ブログは終わってはいない。発信媒体の棲み分けが進むことにより、それはもしかすると水面下に潜ってしまった存在であるかもしれないが、それでもダイヴしてくる人はまだまだ現れると信じたい。読み手も、そして、また書き手も。