コロナ騒動に乗じていること自覚していないとしか思えないメッセージが自分宛に届く。
このご時世に、少しでも自分の心の平静を保ちたいと願っているのに、それでもノイズは土足で自分の心に入り込む。踏みにじる。
独歩。宮本浩次はそう表現した。
アフターコロナに何かが生まれるとするならば、その独歩の精神ではないのか。
自分を自分で生かすための方法を模索し続けること。それが独歩と言うものなのだろう。
自分はこう見えてもコロナ騒動の中で、模索を続けている。それを表面化して見せないことには、理解は得られないのだろうか。
そうであるならば、それこそ、騒動に乗じた自分語りではないか。一方的な私論。
それはあまりにも冗談ではないレベルの醜悪さである。少なくとも自分の言動パターンには存在しない手法である。
そのあり得ない手法をこのようにズルズルと引き出されていること自体が、既にコロナ騒動の被害を酷く被っている事に他ならない。
誰もが傷ついているであろう。憤慨しているだろう。疲弊しているであろう。
だからこそ自分は努めて平静を装うようにしたいのだ。
しかしそれすらも許されないこの日々であるのならば、なるほど確かに自分を含め、人はノイズに参ってしまっているのだろう。
そのノイズまみれの「何」を許せばよいのか。
考えることがまた一つ増え、平静は一歩遠のく。
だからこそ、独歩。
私は私のやり方でこのコロナ騒動を乗り越え、そしてアフターコロナに備える。