ドヴォルザークの交響曲が「野暮ったい」クラシック音楽だとはつゆとも思いませんがな。誰だよそんなことを言いだしたのは(これで故吉田秀和氏だったら素直に謝ります)。
直球にキャッチーであることと、土着的なそれとを混同してしまうと、そのような固定観念と発言とに至ってしまうのではないかと。音への意識をたゆたうかのごとく張り巡らし、小さな針の穴に糸を通すかのごとく張り詰めて座して聴くだけがクラシック音楽の楽しみ方では決してないと思うのですよね。
そこに描かれた音の世界を広い懐で受け止め、棒球だろうが何だろうか、全て聴取感情の反映として打ち返す楽しみがあるのもまたクラシック音楽なのではないかと。
そこでこのドゥダメル指揮によるドヴォルザークですよ。
こってりしない、あっさりしない、からっとしない。
スコアが持つ色と景色を自らのフィルターを通して描き直し提示する。その色の付け方に対してこちらが注文をつけるようなものではなく、聞こえてくるものを想像力豊かに自分の中で換骨奪胎させ、心ゆくまま満喫できる演奏がこれではないかと。
心の中にある脂身を全て取り払った、最もシンプルかつ繊細な部分に触れさせて堪能しては、「ああ、どこか遠くにでも出向いて、新しい空気を見に行きたい」などと素朴に感じ入るなど出来たのであれば、創造された音楽としては本懐ではないかと。
その点においては陸続きの世界に自らの足をもってマインド・トラベルする、おもむくことを可能にする作品群が、このドゥダメルによる後期ドヴォルザークの交響曲録音集なのだろうな。